仏教が好き!(河合隼雄/朝日新聞社)
中沢新一氏と、河合隼雄氏の、仏教をテーマにした対談。対談という形式をとってはいるものの、主導しているのは中沢氏のほうで、河合氏は講義の聞き役のような存在となって、先生と生徒のような関係で話しが進められている。
ただ、仏教ということに関して二人の間の知識量の差が大きくあり、聞き手としての河合氏の存在が薄すぎて聞く一方になってしまっていて、あまり対談という形式が活かされていなかった感じはした。
中沢氏が展開する宗教論には、オリジナルな説明の仕方が多く、新鮮な驚きがたくさんある。仏教というものについて、とても噛み砕いた言葉で、身近な生活や、他の宗教との対比によって説明しているので、ものすごくわかりやすかった。
特に、後半の、真言密教(曼荼羅)と量子論の相似についての話しは面白く、これから先の時代におとずれるだろう、科学と宗教との融合を予感させる圧倒的なスケールがある。
【名言】
もしもイスラムの言う「アッラー」が仏教の説く「真如」と同じだという認識に達しているイスラムの宗教者がいるとすると、そこではもはや神と人との非対称性すら消失することになるでしょう。そして実際、どの宗教でも神秘主義の段階に入ると、神と人との非対称性は消滅に向かおうとします。井筒先生たちは、宗教の未来というのを、この方向に切り開こうとしていました。(p.19)
科学と宗教を媒介する場所に立てるのが仏教だと思います。それができるんですよ。なぜそれが仏教にできるかというと、仏教は「野生の思考」から発達した思想として、一面で科学なのですね。(p.24)
「神々及び人間」は動物もみんな含めて輪廻のなかにあるわけですから。そういうものとしてすべて同等で、ただ時間感覚が違う。神様と人間は生命の長さが違うから時間感覚が違うだけだけども、お互いのなかにそれほど本質的な違いはないということになってきます。(p.60)
仏教は生き物を殺さないということを重要な主題にするにもかかわらず、この仏教のもう一つの鏡の対極のように狩猟の世界があるということが、何か仏教というものが持っている非常に複雑な性格をつくっているような気がします。
仏教だけが「動物を殺してはいけない」と言う。しかし、その思想は深いところで「野生の思想」に連続している。つまり、狩猟の世界とも深いところでつながっている思想としての「殺生禁断」なんです。(p.105)
「その木は仏だ」と言ったときの「仏」というのは、われわれにとって完全な空虚なんですね。何の意味もない。ただ「仏」という何かがあるだけですね。包摂力をもって何かを肯定しているけれども、それは何かで表現しようと思うと、全部「否定」される。
けれども、それが「仏」という概念で、たいがいの日本人は即座に「すごく強烈だけども、中身はすっからかんなものだ」と理解するわけでしょう。仏教というものが、いかに日本人に浸透しているかと思い知らされます。仏教のほかの面については、むずかしいところがあるし、どうでもいいと思うことも多くあるんですけど、ただ、「仏です」と言ったときの理解の共通性については、日本人であればたいがい行き渡っているところがあります。(p.154)
おそらくハイデッガーの哲学は、東洋へ持ってくると、密教と同じようなことを言っているという認識になると思うんです。神秘に関わることを「在る」と表現しているだけで。(p.163)
生物は生存の条件からして楽になれない、と仏教は考えます。どういうところが楽になれない限界かと言うと、細胞膜があるからでしょう。自分と外の世界を分けて、自分の世界の細胞膜のなかに自分の世界を完結して、このなかで楽になろうとしている、という条件づけが、生物から苦しみを取り除けないんじゃないでしょうか。(p.191)
量子論の思考法に登場した、その数の配置でできた子宮は、一つ一つの数を足したり引いたりしただけでは何の意味も発生しないもので、総体で動き変化していく全体性にしか意味がないものですので、まさに仏教で言う「胎蔵界曼荼羅」の思考法にあたります。(p.230)
なぜ仏教が大事かと言うと、人間の思考のいちばんの始まりの状態といちばん発達した状態というのを、一つに結合できる長所があるからです。この点は、キリスト教などはなかなか頑なにできていますから、そういう人類の自然な叡智に、すんなりと辿りつくのがむずかしい。(p.242)