凍(沢木耕太郎/新潮社)

これは、かなり感動的な話しだった。
いきなり、何の前置きもなく、ギャチュンカンという山の話しから始まる。そしてそのまま、全編、ひたすら山登りについての話しという、かなり割り切った構成だ。
ノンフィクションらしく、余計なものをすべて削ぎ落とした淡々とした語り口だけれど、それがとても、ヒマラヤという何一つ余計なものがない舞台の空気に合っている。
クライミングという行為の厳しさと、それに挑む人たちのストイックさには、怖ろしいほどに緊迫したものがある。谷口ジロー氏の「神々の山嶺」では、山の荘厳さを絵で表現していたけれど、この本では、それを文章によって壮絶に描いている。
文章のほうが格段に伝わってくるのは、クライマーの心理の、執拗なまでの繊細さだ。ほんのわずかでも成功の可能性を高めるために、たった1グラムであっても荷物を軽くしようとし、慎重に慎重をかさねて計画をした上で、命を懸けて身体一つで山に挑んでゆく。
この主人公の場合、スポンサーがいるわけでもなく、単独での登攀を基本スタイルにしている。自分の納得のために山に登るという、完全に自分自身との闘いで、ここまで圧倒的な自然というものに対峙するというのは、禅の極地に近いような、無我無心の心境なんじゃないだろうかと思う。
ここで描かれている、ギャチュンカン北壁への登頂は、単独行ではなく、夫婦での挑戦になっていて、その点もまた、ドラマとしてとても魅力のあるものになっている。人間にはここまでの潜在能力があるのか、という驚きもあるし、人間はここまでの極限状態になっても自分やパートナーを信じることが出来るものなんだ、という感動もあった。
この本は、事実を元にしたノンフィクションなので、ネットなどで調べればその結末はあらかじめわかってしまうのだけれど、これは、絶対にやらないほうがいい(思わずやってしまいそうになったところで、踏みとどまった)。彼らの冒険行がどうなるのかわからないまま、ハラハラしながら読んだほうが、間違いなく面白い。
【名言】
初登であるかどうかは、登山の面白さを保証する絶対的な条件ではない。しかし、第二登以後の登山では、面白さの何割かが減ってしまうことは間違いない。なぜなら、登れるということと、登れたということはとてつもなく大きな情報なのだ。たとえ登られたルートの詳細がわからなくとも、誰かが登ったというだけで、その山の難しさの何割かは減ることになる。(p.37)
図書館に行って、山の本を読むようになった。子供向けの登山の手引書を読むと、その中にこういう一節があった。
<酸素ボンベを使わずにエベレスト山頂を登った人間はいません>
そのとき、どうして、みんなやらないのだろう、と不思議に思った。誰もやらないならやってみたらいいのに。だから、小学校の卒業文集には、将来の夢として「無酸素でエベレストに登る」と記した。(p.83)
最新の装備に囲まれ、ピンク・フロイドを聞きながら、生きて帰れないかもしれない山に挑戦する私。
かたや、父を亡くした十三歳の少女は、ヤク・ドライバーとして厳しい環境で働かなくてはならない。一枚のビスケットに幸福を感じながら。
これでいいのか。
自分の人生は間違っていないのか。
しかし、残念ながら、あの山を見ると、登らざるをえない自分がいる。(p.132)
山野井は無線や衛星電話などでの天気の情報を手に入れることをしない。それは酸素ボンベをかついで登るのと同じようなことのような気がするからだった。山野井には、できるだけ素のままの自分を山の中に放ちたい、という強い思いがある。それがこの登山にトランシーバーを持ってこなかった理由でもあった。(p.144)
山野井の指摘を待つまでもなく、妙子自身も自分には恐怖心がないと思っている。しかし、この岩の最後の一歩だけはなかなか踏み出せなかった。どう考えても落ちてしまいそうだったからだ。足を滑らせれば千メートルは一気に墜落することになる。
しかし、ここまで登って来てしまった以上、ひとりで降りることはできない。すでにそこを渡りきった山野井はさらに傾斜のきつい壁を登りはじめている。もう進むしかないのだ。妙子はなかば落ちるのを覚悟で支えにならない岩肌に足を踏み出した。
どうにか渡り切ったとき、さすがに胸が高鳴っていた。なぜ落ちなかったのかわからないほどだった。(p.176)
かつてカー・レーサーのアイルトン・セナが、時速三百キロのスピードで走っているにもかかわらず、わずか一ミリの大きさのものすら見える瞬間がある、と言っていたような記憶があった。いまの自分もそれに似ていると山野井は思った。全身の感覚が全開され、研ぎ澄まされ、外界のすべてのものが一挙に体の中に入ってくる。雪煙となって風に飛ばされる雪の粉の一粒一粒がはっきりと見えるようだった。いいな、俺はいい状態に入っているな、と思った。(p.204)
この絶望的な状況の中でも、二人は神仏に助けを求めることはしなかった。ただひとつ、山野井は心の中で、この圧倒的な自然というものに対して呼びかけていたことがある。どうか小さな自分たちをここから叩き落とさないでほしい、と。(p.220)
妙子はこんな説明を受けた。亡くなった男性隊員は寒さと疲れで生命の中枢をつかさどる神経がやられてしまった。しかし、妙子は手足の指と鼻という末端を犠牲にすることで中枢神経を守り切り、生き延びることができた。(p.279)
いずれにしても、これで自分が目指していたクライミングはできなくなってしまった。マカルーも、ジャヌーも、難しい壁を攀じ登って頂にいたることはできなくなってしまった。「絶対の頂」は登れなくなってしまったのだ。しかし、それは死ななくても済むということだ。生き残れるようになったということだ。(p.305)
【謝辞】
この本は、マキに贈ってもらいました。
インタビューによってここまでの物語を他者から引き出して、紡ぐことが出来るという可能性を見せてくれたことに、オレはかなり痺れました。