犬を連れた奥さん(チェーホフ/岩波書店)
ものすごく短い小説だけど、しみじみと考えさせられる内容だ。
仕事もプライベートも、上手くいっているように見える主人公だけれど、それは結局、大切にするべきものや、何としてでも守りたいものが一つもなかったからこその身軽さだったのだろうと思う。
人生が変わる瞬間というのはドラマチックだ。この主人公は、中年にさしかかったその年でようやく、自分自身の人生を生きている気持ちになったに違いない。そういう変化の楽しさやせつなさが、この短いページの中に詰まっている、とても味わい深い小説だった。
【名言】
わたしがあの人のところへ嫁いだのは二十の年でした。わたしは好奇心でもって苦しいほどいっぱいで、何かましなことがしたくてなりませんでした。だって御覧、もっと別の生活があるじゃないか、って、わたしは自分に言い言いしました。面白可笑しい暮らしがしたかったの!生きて生きて生き抜きたかったの・・。わたしは好奇心で胸が燃えるようでしたの・・こんな気持ちはあなたには分っていただけますまいけれど、本当に私はもう自分で自分の治まりがつかなくなって、頭がどうかしてしまって、なんとしても抑えようがなくなってしまったの。(p.18)
アンナ・セルゲーヴナもはいって来た。彼女は三列目に腰をおろしたが、グーロフはその姿を一目みた瞬間ぎゅっと心臓がしめつけられて、現在自分にとって世界じゅうにこれほど近しい、これほど貴い、これほど大切な人はないのだということを、はっきり覚ったのだった。田舎者の群れのなかに紛れ込んでいるこの小さな女、俗っぽい柄付き眼鏡かなんかを両手にもてあそんでさっぱり見映えのしないこの女、それが今や彼の全生活を満たし、彼の悲しみであり、悦びであり、彼の現在願い求める唯一つの幸福なのだ。(p.33)
彼はこの生命にふと同情を催した。それはまだこんなに温かく美しい、けれどやがて彼の生命と同じく色あせ凋みはじめるのも、恐らくそう遠いことではあるまい。どこがよくって彼女はこれほどに彼を慕ってくれるのだろう?彼はいつも女の眼に正体とはちがった姿に映って来た。どの女も実際の彼を愛してくれたのではなくて、自分たちが想像で作りあげた男、めいめいその生涯に熱烈に探し求めていた何か別の男を愛していたのだった。そして、やがて自分の思い違いに気づいてからも、やっぱり元通りに愛してくれた。そしてどの女にせよ、彼と結ばれて幸福だった女は一人もないのだった。時の流れるままに、彼は近づきになり、契りをむすび、さて別れただけの話しで、恋をしたことはただの一度もなかった。ほかのものなら何から何までそろっていたけれど、ただ恋だけはなかった。
それがやっと今になって、頭が白くなりはじめた今になって彼は、ちゃんとした本当の恋をしたのである。生まれて初めての恋を。(p.42)