日本という方法(松岡正剛/日本放送出版協会)
「日本」という国が持つ本質は何かということを、平安初期から近現代までにわたっての通史として、時代順に通して考えた本。
これほどに広範なテーマに取り組んで、理路整然と腑分けをして語ることが出来る見識を持つ人というのは、かなり限られるだろう。語られていることは、とても奥が深く、内容が濃いのだけれど、話題がどんどん深い方向に進んでいくので、残念ながら知識不足によって全体を明確には理解出来なかった。
もうちょっと読みやすければいいとも思うけれど、これでも、著者からしてみれば、かなり手加減をして、わかりやすくかいつまんで説明をしているのだろうと思う。
日本文化の源流ということを考えた時、平安時代の和歌や、鎌倉時代の禅、江戸の町民文化などに個別に着目して語られることは多いと思うけれども、それらすべてを貫いている共通の精神が何なのかという、一段奥に入った問いがテーマになっているところが面白い。
もう一つ、新鮮だったのは、明治から昭和にかけての「日本という方法」を検証するにあたって、金子光晴、野口雨情、九鬼周造、司馬遼太郎、という四人の日本人を挙げて、彼らの表現を通して考えようとしていることで、これは、今までにまったく知る機会のなかった、新しい視点だった。
あまり厚い本ではないのだけれど、一冊の中に含まれる情報量がやたらと多いため、読み終わった時かなりのページ数を読んだような気分になる。
【名言】
ギリシア語があってホメロスが叙事詩を書いたのではなく、ホメロスらの語り部たちがいてギリシア語が生まれていった。そのあとさきが重要なのです。ウェルギリウスがいて古代ローマ語が生まれ、ダンテがいてイタリア語が生まれたというべきだということです。『ロランの歌』が先行して、それがフランス語に成長していった。言語があって物語が編集されたのではなく、物語の編集が進んで言語が確立するのです。(p.47)
内村鑑三に『代表的日本人』という有名な本があります。そこには五人の日本人があげられているのですが、そのうちの三人が陽明学に打ちこんでいます。中江藤樹と二宮尊徳と西郷隆盛です(ほかの二人は日蓮と上杉鷹山)。(p.179)
現状の日本人にも「からごころ」にあたるものがこびりついているかどうかは、それはさておきます。おそらくは「アメリカごころ」のようなものがあるでしょう。合衆国の五十一番目の州に属している気分もあるでしょう。それに抵抗する力を半ば喪失していると感じている人も少なくないでしょう。
が、宣長の時代、「からごころ」を取り除いて日本の本来と将来が考えられるのなら、それをこそいったんは徹底して思索してみたいと考える者がふえてきたのです。自分たちが日本人自身であることの根拠をきれいに言おうとすると、その「からごころ」が邪魔をする。そういう実感をもたらすものを取りのぞいた思索をしてみたい。そう考えたのです。
これがいわゆる「国学」というものでした。(p.193)
なぜこれほど外国対策に苦労するかといえば、答えははっきりしています。日本が「海国」であるからです。しかし海国であるのに、海国らしからぬ歴史を歩んできたのです。
本来は、安心して海国であることを満喫するには、よほどの航海術と造船術と兵力に富んでいなければなりません。ヴェネチアやイスパニアやイギリスのことを考えれば当然ですが、それなのに日本はいっこうに航海術も造船術も発達させなかったのです。(p.214)
満州事変のあと、昭和日本は翌年の一年だけで上海事変、満州建国、血盟団事件、五・一五事件をつづけさまにおこします。それからはリットン調査団に満州撤退の勧告をうけると、国際連盟を脱退して世界から孤立していきます。以降は奈落での狂言のような事態を演じるしかなくなっていきました。
おそらくこんな展開は北一輝にも石原莞爾にも想像できなかったことでしょう。司馬遼太郎は日本はすっかり「異胎の国」になったと名付けました。シナリオは次々に裏切られ、統制派が軍部を掌握して一億総火の玉となっていくまで、およそリーダーなき戦争の舞台に吸い寄せられていくのです。
そんななか、いささか奇異に映るのは、やはり北一輝と石原莞爾の二人ともが法華経の世界に投じていたということでしょう。血盟団の井上日召が日蓮主義者で、その背景にいた田中智学が熱狂的な法華革命論者であったこととあわせて、昭和史の裏面を暗くも妖しくも、また複雑にも感じさせるところです。
それでは、ほかに「日本という方法」は模索されていなかったのでしょうか。そんなことはないはずです。そんなはずはありません。(p.288)
司馬文学は本人の弁によれば「その行為が美しいかどうかだけ、それだけを考えてつめていく」というものでした。これはまさに陽明学そのものです。しかし、司馬には陽明学とはまったく逆のところがありました。それは小説の書きかたとエッセイの綴りかたによくあらわれている。
司馬は「核心は書かない」「糸巻きのように周りのことを徹底して書く」、そして「最後に空虚なものが残る」という作法に徹していたのです。この司馬メソッドは私が注目しているところです。私も「日本という方法」を案内するには、そのような書きかたが一番いいだろうと思っているのです。とくに核心と空虚を残すという方法です。(p.309)