私の男

私の男
私の男(桜庭一樹/文藝春秋)

桜庭一樹という人の本は初めて読んだのだけれど、素晴らしい文章を書く人だと思った。どのシーンの描写をとっても、よくこんなにも上手い表現が出来るものだと思う。
「私の男は、ぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた。」という、冒頭の出だしからして、かなりいい。
構成がまたスゴい。6章に分かれた物語は、現在を起点として、順番に過去へと遡っていく。そして、それぞれの章ごとに物語の中心となっている人物が異なり、語り手も違う。
読者は、物語の結果を最後に見るのではなく、結果からその原因をたどっていくという、通常と逆の流れに乗せられていくことになる。なんとドラマチックで、見事な構成になっているのかと思う。
それに加えて、この作品をさらに面白くしているのは、なんといっても、物語の主人公である、うらぶれた中年男の何ともいえない独特な雰囲気だ(腐野という名前は一体どういうセンスなのかと思うけれど・・)。
はじめ、著者を男性だと勘違いして読んでいて、それにしては描き方が不思議なほどに女性視点だなあと思っていたら、実は女性だった。
最初のページを読んだだけで「間違いなく面白い」と確信出来るような小説に出会ったのは久しぶりだった。そして、その期待を最後まで裏切らなかったという点でも、稀有な作品だ。
【名言】
私の男は、ぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた。日暮れよりすこしはやく夜が降りてきた、午後六時過ぎの銀座、並木通り。彼のふるびた革靴が、アスファルトを輝かせる水たまりを踏み荒らし、ためらいなく濡れながら近づいてくる。店先のウィンドゥにくっついて雨宿りしていたわたしに、ぬすんだ傘を差しだした。その流れるような動きは、傘盗人なのに、落ちぶれ貴族のようにどこか優雅だった。これは、いっそうつくしい、と言い切ってもよい姿のようにわたしは思った。(p.6)
あの男は、濡れて帰ったのだ。自分を粗末にすることにかけては、見所がある人なのにだめになることにかけては、彼はむかしからプロ級だった。(p.18)
ライターがふっと明るい炎を放ち、煙草に火がついた。吹雪の中で、橙色の小さな火が、光っている。つめたい光。でも、ふれればもちろん熱いのだろう。(p.105)
わたしのとよく似た切れ長の目が、笑いをこらえるような光をたたえて潤んでいた。おじいさんのほうには見えないわたしの憎しみが、この目にはいくらでも見えて、どんどん吸いこまれていくような気がした。(p.316)