死ぬときに後悔すること25(大津秀一/致知出版社)
よく生きるとは、即ち、よく死ぬことであると、昔の人は言った。
著者は、終末医療にたずさわり、1000人以上の死に接してきた医者で、患者たちが最後に語る言葉の中で、何に後悔しているかという述懐を拾い集めて、この本にまとめている。
まだ健康であったり、若年であるうちには、死の間際に後悔することがあるということなど、想像もつかないことであるけれども、たしかに、自分の人生の終わりが見えて素直になった時に、初めて気づく事というのはあると思う。
そして、その中には、健康を失って身動きがとれなくなってからや、高齢になってからでは、もはやどうすることも出来ないことも多くあるはずだ。
著者は、代表的な「後悔することが多い」事柄として、25の項目を挙げている。
死ぬ直前にやろうとしても間に合わないけれど、ある程度の時間があれば実行出来ることばかりだ。
これらの項目をひととおり眺めて意識するだけでも、今日からの生き方は変わってくるだろうと思う。
1)健康を大切にしなかったこと
2)たばこをやめなかったこと
3)生前の意思を示さなかったこと
4)治療の意味を見失ってしまったこと
5)自分のやりたいことをやらなかったこと
6)夢をかなえられなかったこと
7)悪事に手を染めたこと
8)感情に振り回された一生を過ごしたこと
9)他人に優しくなれなかったこと
10)自分が一番と信じて疑わなかったこと
11)遺産をどうするかを決めなかったこと
12)自分の葬儀を考えなかったこと
13)故郷に帰らなかったこと
14)美味しいものを食べておかなかったこと
15)仕事ばかりで趣味に時間を割かなかったこと
16)行きたい場所に旅行しなかったこと
17)会いたい人に会っておかなかったこと
18)記憶に残る恋愛をしなかったこと
19)結婚をしなかったこと
20)子供を育てなかったこと
21)子供を結婚させなかったこと
22)自分の生きた証を残さなかったこと
23)生と死の問題を乗り越えられなかったこと
24)神仏の教えをしらなかったこと
25)愛する人に「ありがとう」と伝えなかったこと
【名言】
人間は後悔とは不可分の生き物である。
現実問題、私が見届けてきた患者さんたちは、大なり小なり何らかの「やり残したこと」を抱えていた。だから皆、程度の差こそあれ、後悔はしていた。
けれども、その後悔の程度には大きな違いがあった。単純な話しだが、明日死ぬかもしれないと思って生きてきた人間は、後悔が少ない。明日死ぬかもしれないと思う人間は、限られた生の時間を精一杯生きようとする人間であり、一日一日に最善を尽くそうとする人間である。一期一会を思う人間である。(p.5)
世の中では、死ぬ直前まで話ができたり、病室には患者と家族しかいなかったり、あるいは死のちょっと前まで動けたりとか、そういう夢物語のようなドラマがまだたくさん放映されているが、あれは事実ではない。
つまり皆さんが亡くなる頃には、話はできず、意識もなく、動けない。
そればかりではなく、家族が遠くに追いやられ、管や機械や、医者や看護婦に取り囲まれてしまうかもしれない。
そのような状況下で、あなたは自分の意志を示せるだろうか?
答えは明白である。
明確にノー、なのである。
要するに死期が迫ると、皆さんは「こうして欲しい」とか「ああして欲しい」とか考えるのが面倒になり、またそれを伝えることが様々な理由で困難になるのだ。(p.39)
人をいじめることがよくあるのなら、心を入れ替えたほうが良い。優しさが足りないのならば、優しさを意識したほうが良い。それらは死が迫ったときの、後悔の一因となる。他を蹴落し、どんな勝負に勝ってきたとしても、同じように努力しても決して勝利できないのが死である。けれども、生の終わりを敗北ではなく、完結ととらえられるのならば、死は恐るべきものではなくなる。
単なる気遣いではなく、他人に心から優しくしてきた人間は、死期が迫っても自分に心から優しくできるだろう。だから真に優しい人は、死を前にして後悔が少ないのである。(p.84)
正直、死を前にすれば貴賎や地位の高低等まったく関係ない。それまで社会的に大成功をおさめていた立派な社長が泣き叫んだりする。逆に、普通人極まりない(ように見える)人がまったく死に臨んで動じなかったりする。
案外、得るものが多かった人間は、失うものも多く、だから最期に何かにすがりたくなるのかもしれない。あるいはまた、すがりつくことがあまりできなかった人生だからこそ、最期は何かにすがりたくなるのかもしれない。(p.204)