愛は束縛(サガン)

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愛は束縛(フランソワーズ・サガン/新潮社)

せつなくも、退廃的な美しさがある小説だった。
結婚してから7年間ヒモとして養われているヴァンサンも、相手を思うとおりにがんじがらめにしないと気が済まないローランスも、どちらも極端な人たちだ。
お互い、もう少し上手いやりようがあるだろうと思うけれど、あまりに不器用なコミュニケーションしか出来ない二人であるために、ひたすら自壊の道へと突き進んでしまう。このすれ違いっぷりは、とにかく、せつないとしか言い様がない。
この哀しさにもかかわらず、まったく暗い印象がないのは、登場人物たちの華やかな生活によるところが大きいと思う。広々としたフラット、華やかなカフェ、ロンシャン競馬場、などの舞台のきらびやかさともあいまって、彼らの逸脱具合が、世俗とは切り離された世界の出来事のような感じがしてくる。スタインウェイのグランドピアノや、スポーツカーといった小道具までもが、どれもこれもステージの演出に一役買っている。
「愛は束縛」というのはかなりそのままなタイトルだけれど、たしかに、この物語を表現するにはこれ以外にない言葉だろうと思う。
【名言】
ぼくはこういうローランスの姿を見るのが好きだ。自由で、声までもが自由に響いて、不意に通俗的な感じさえする顔になって、我を忘れて怒っていて。また、シニカルで、短気で、自然で、冷淡になっている彼女を見るのもとても好きだ。だが彼女自身は逆に、そう見られまい、そう思われまい、と努めているのである。ローランスは、絶対的で、物質的ではなく超然として、知的で学識も豊かで、夢見がちでナイーブな心の女性になろうとし、また、周囲からもそう見られたいと願っていた。つまり、彼女が描きたがっている自画像も、他人の目に映る彼女の姿も、実際のローランスとは全く逆の性質なのである。そしてぼくはそこにこそ、人類共通の一つの大きな不幸が隠されているように思えてならない。それは自己を拒絶してしまう不幸である。本来の自分とは逆のものを求める情熱が、注意深く隠蔽されながらもたぎり続ける不幸である。(p.78)
「ヴァンサン、私を見て、お願い!」
ローランスは両手でぼくの顔をはさみ、自分の顔に近づけた。顔は噛みつきかかれるほど間近に迫り、ぼくは超人的な努力をしてその距離をこらえていた。ローランスはぼくを欺こうとしている。これは偽りの誠意だ、偽りの真心だ。二人の視線はこれほど間近にありながら、実際は遠く離れてしまっているのだ。(p.117)
ああ、七年の間ここで、ぼくは結局孤独だった。孤独。そう、あまりに孤独だ!二人でいながら、分かち合う笑いもなく、同じような思いを抱くこともなく、共に発したのは快楽の叫びだけ、そしてそれさえも、決して同時であったことはなかった・・。(p.142)
この世に騎手のジョッキー・ジャケットとカジノのコインの色ほど鮮明で率直なものはなく、戸外の競馬場とたばこの煙の立ち込める賭博場ほど波瀾に富んだ場所はなく、サラブレッドの歩みと百万フラン分のコインほど軽やかなものはない。そして、人の勝利、もしくは破滅を宣告するのに、伏せて置かれた二枚のカードほど、品位あるものはない。ぼくは急に賭けをしてみたくなった。それは先ほど急にあのヴィヴィアンに欲望を感じたのと同じように、抑え切れないどうしようもない気持ちだった。(p.190)
ぼくに何がわかっている?人生の何を知っている?何も知りはしない。わかっていたはずのことがますます減ってゆく。わからないことばかりがますます増えてゆく。人生の何もかもがぼやけて、厭わしく、ばかばかしい。何もかもがだるい。ぼくの願いは今やただ一つだけだった。眠ること。アスピリンを飲んで眠ること・・なのに人は、よってたかって人生を変えろとぼくに迫る。(p.201)