神は妄想である


神は妄想である(リチャード・ドーキンス/早川書房)

タイトルからして、本を手にとった瞬間から面白そうな予感に満ちていて、実際、予想にたがわず、ものすごい面白さだった。
アメリカにおいては、無神論者であると公表することは、同性愛者であるとカミングアウトすることよりも居心地が悪い思いをするものであるらしい。無神論者は、選挙で選ばれる公職に就くことも難しい。そのような中で、大胆にもこのような著書を出版したことが、まずスゴい。ヘタをすれば、狂信的な人からの攻撃を受けたり、命の危険にもかかわる行為だ。映画「コンタクト」を見ても、無神論の科学者というのは、かなり不利な立場に置かれることが多いことがわかる。
しかも、ドーキンスは失うものがない無名の学者というわけではなく、生物学・遺伝学の権威としてその道では知らぬ人のない、ひとかどの生物学者だ。
そのような、広範にわたる影響力を持つ彼だからこそ、この本は大きな意味を持つのだと思う。彼が言う以上は、宗教界の権威の人々も、一学者の世迷言として無視することは出来ないからだ。
世の中の生物は、進化論や偶然によって成長したとするには、あまりにもうまく行き過ぎているから、かならずやそれを「設計」した存在があるはずだ、というのが有神論者や理神論者の一般的な主張だ。自分も、この本を知るまでは、それと同じような考えを持っていた。
しかし、この本を読んでよくわかったのは、「自然淘汰」のメカニズムというのは、「設計」説よりもはるかに整然と、このうまく行き過ぎている仕組みの現実を説明出来る理論を備えているということだった。
「設計」説というのは、その説によって、どれだけこのあり得ない現実を説明したとしても、「それを設計出来るほどの存在は、ますますあり得ない」という矛盾を含んでいる。
この本では、様々な科学者、哲学者、文学作品の中からの言葉が数多く引用されていて、それぞれの立場の人が、いったいどのように神について考えていたかがよくわかる。この、「神はいるか」という命題ほどに、長年にわたって多くの人々の興味をひいてきたテーマは他にないかもしれない。
この本の中でも、第4章の「ほとんど確実に神が存在しない理由」が、特にスゴい。重要なエッセンスはすべてこの章に含まれていて、他の章はその前置き、あるいは補足的な内容と言っていいので、この章だけを拾い読みしても充分に価値はある。
これほどまでに、自分の蒙を啓いてくれた本はかつてなかった。有神論、無神論いずれのスタンスであったとしても、得るものがある本であると思う。
【名言】
理神論者は、彼らの神が、汎神論者の神のように宇宙の法則の比喩的あるいは詩的な同義語ではなく、ある種の宇宙的な知性である点で汎神論者と異なる。汎神論は潤色された無神論であり、理神論は薄めた有神論なのである。(p.34)
フランスの数学者ブレーズ・パスカルは、神が存在するという確率がどんなに小さくとも、神の有無についてまちがった推測をしたときの報いには、かなり大きな非対称性が存在すると考えた。「あなたは神を信じたほうがいい、なぜなら、もしあなたが正しければ永遠の幸福という利益を得るが、まちがっていたとしても、いずれにせよ失うものはないだろう。それに対して、もしあなたが神を信じないとして、それがまちがっていることが判明すれば、あなたは永遠の苦しみを得ることになるが、正しかったとしても、何の利益もない。」けれどもこの論証には、はっきりとおかしいところがある。(p.156)
ありえなさという難問に対する答えの対立候補としてよく設計と偶然というペアがあげられるが、この組み合わせはまちがっている。それを言うなら、設計と自然淘汰とすべきなのだ。偶然は、私たちの見ている生物のありえなさのレベルが非常に高いことを考えると答えではありえず、まっとうな生物学者で、偶然が答えだと言う人間は一人もいない。設計も、これから見ていくように、本当の答えではない。しかし、さしあたり私は、いかなり生命理論も避けては通れないこの問題について説明をつづけたいと思う。それはいかにして偶然から逃れるかという問題である。(p.179)
「このすべてが偶然によって生じたのでしょうか?あるいは知的な設計によって生じたのでしょうか?」もう一度言うが、もちろん、それは偶然によって生じたのではない。知的な設計は偶然に代わる適切な代替案なのではない。自然淘汰こそ最節約的で、説得力があり、優雅な唯一の答えであるというだけではなく、これまで提案されてきた偶然の代案として最も有効なものである。(p.180)
捕食者は餌動物を捕まえるために美しく「設計されている」ように見えるが、餌動物のほうも同じように彼らから逃れるために美しく「設計されている」ように見える。神はどっちの側についているのだ?(p.201)
本当の意味で法外である「神がいる」という仮説と、見かけ上法外なように見える多宇宙仮説のあいだの決定的な相違は、統計学的なありえなさの相違である。多宇宙は、いかに法外なものに思えようとも、単純である。しかし神は、あるいはどんな知的で、意思決定をし、計算する作用者であれ、それによって説明される事柄とまさに同じ統計学的な意味で、高度にありえないものだと言わざるをえない。(p.219)
ノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者スティーヴン・ワインバーグが言うように、「宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。宗教があってもなくても、善いことをする善人はいるし、悪いことをする悪人もいるだろう。しかし、善人が悪事をなすには宗教が必要である」。(p.363)
考えてみてほしい。ある惑星上で、そしてあるいは全宇宙でたった一つの惑星で、ふつうなら岩石の塊以上に複雑なものをつくらない分子が、おのずと寄り集まって、走ったり、跳ねたり、泳いだり、飛んだり、ものを見たり、音を聞いたり、他の同じような命をもつ複雑な塊を捕らえたり、食べたりすることができるような、信じがたいほどの複雑さをもつ岩石ほどの大きさの塊になるのである。それがときには考え、感じ、さらにまた別の複雑な物質の塊と恋に落ちることさえあるのだ。現在では、この軌跡がどのようにしてもたらされたかについて基本的には理解されているが、それは1859年以降のことにすぎない。1859年以前には、それは実際奇妙に、ただひたすら奇妙に思われていたことだろう。現在ではダーウィンのおかげで、それはせいぜい、「実に奇妙な」だけである。ダーウィンはブルカの窓をつかんでこじあけ、洪水のように理解が流れ込むようにしたのであり、その目も眩むような新しさ、人間の精神を高める力は、ひょっとしたら、前例のないものであったかもしれない。地球が宇宙の中心でないことに気づかせたコペルニクスを例外とすれば。(p.539)
私たちミドル世界の住人は、ブラウン運動に気づくには鈍重なほどに大きすぎる。同様に、私たちの生活は重力に支配されているが、表面張力の微妙な力にはほとんど気づかない。もっとも、小さな昆虫の場合は優先順位が逆になっていて、表面張力が微妙どころの騒ぎではないことを知っているだろう。(p.544)
ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記