家族という共同体はどれも込み入った事情と歴史の上に成り立っている。「抱擁、あるいはライスには塩を」

[amazonjs asin=”4087713660″ locale=”JP” tmpl=”Small” title=”抱擁、あるいはライスには塩を”]

もっと柳島家を見続けていたかった

ものすごく良かった。
最高に好きな種類の小説。
主人公の人物が次々と交替していくオムニバス形式というところがまず好き。くらもちふさこの「駅から5分」からも同様の面白さを感じたけれど、こういう形の表現に、とても魅力を感じるのだと思う。

更に時系列もあちこちの時代をいったり来たりして、かなり多様な視点から物語が綴られている。
それによってあぶり出されるのは「柳島家」という一つの家族の姿で、家族という共同体が、いかに込み入った事情や歴史の複合の上に成り立っているかということが、しみじみと伝わってくる。

ある一人の人物から世界を見た時には、単なる書き割りのように点景として見えた人物が、立場を変えてその人の視点から同じ世界を見た時に、その人にも一つの広大な人生があり、まったく別の風景が姿を現すという奥行きが素晴らしい。
たとえば、桐叔父さんなどは、子どもから見れば、単に明るく理解のある大人に過ぎないのだけれど、その彼自身が学生だった時の体験もエピソードとして語られることによって、物語の中での存在感がまるっきり変わってくる。

各章のタイトルは「1972年晩秋」というように、時間だけを示しているので、その章の語り手が誰であるのかというのは、ある程度先まで読み進まないとわからないようになっていて、その、ぼんやりした始まりから、だんだんとピントが合っていくような感覚がいい。

柳島家は、世間一般の家庭と比べると、ちょっと特殊な環境ではあるけれども、そこに、家族というものが等しく持つ、変化への戸惑いや、成長に伴う痛みや、葛藤や矛盾や愛情といったあらゆる複雑な要素が含まれているという点では、他の家庭とほとんど変わるところはない。

登場人物の人生を傍から眺めて、その軌跡を詳しく知るにつれ、すっかり柳島家の人々に感情移入してしまい、本が終わりに近づくにつれて名残り惜しくなって、より詳細な過去のエピソードや、もっと先の彼らの日々を見守り続けたいという気持ちだった。
これは、同じ江國香織の「思いわずらうことなく愉しく生きよ」を読んだ時にもやはり湧き上がった感情で、それぐらい実在感のある人物や世界を小説の中に構築させることが出来るというのは、ものすごい描写力なのだと思う。

名言

ピアノは私のエネルギーだ。これまで、そんなふうに思ったことはなかった。いつもそばにあったし、いつでも弾くことができた。ただたのしく弾いているだけだった。でもいまは--。どう言えばいいだろう。いまは、もっと切実にピアノを弾いている。切実に、一心に。弾いているあいだ、私は私の人格を信頼することができる。挙式の日以来がらりと変わってしまった私の生活に、ピアノだけが秩序をもたらしてくれる。(p.204)

「一緒にお塩を持ってくるの、忘れないでね」
私が言うと、いつものように桐之輔は笑った。
「ライスには塩を」
合言葉を呟く。そこで私も、
「そうよ、百合ちゃん、ライスには塩を!」
と、妹に言った。これは私たち三人だけ通じる言い回しで、無理に翻訳するなら「自由万歳!」。お茶碗に入った白いごはんはそのままでおいしいと思うのだけれど、お皿に盛られたごはんには、どういうわけか塩が欲しくなる。私たちは三人ともそうで、でもお行儀が悪いし塩分の摂りすぎになる、という理由で、子供のころにはさせてもらえなかった。大人になってよかった、自由万歳、というわけ。(p.296)

この世に岸部明彦という人が存在した。それは驚くべきことだった。私はこれまで他の誰に対しても、そんな風に感じたことはなかった。家族にも、大好きだった豊彦さんにも--。彼らはそもそもの初めから、私の人生に存在していた。(p.304)

「大丈夫。光一くんのことは私が守ってあげるし、私のことは光一くんが守ってくれるんでしょう?」
彼がうなずくまでに間があった。ちゃんと考えてからうなずく人なのだ。ちゃんと考えてからうなずいたとき、光一くんの表情には真剣味が溢れていて、つないだ手にまで力がこもる。私はまた胸が熱くなった。なんていいやつなんだろう。(p.338)

「やけに立派なお宅でしたね」
タカオが何かぼそぼそ話しかけてきたが、俺は返事をしなかった。何やらあたたかな心持ちがして、そのことに自分で戸惑っていた。未婚のまま子供を産むには大きな覚悟が要っただろうし、そのことが本妻さんやその家族にとって歓迎すべき事態だったはずはない。けど、ひとところにかたまって手を振っていた彼らは、幸せな大家族みたいに見えた。(p.426)

ともかく彼らはおつきあいの期間がながく、涼子さんはしょっちゅう家に遊びに来ていて、だから私たち家族は、彼女をよく知っている気がしている。結婚すると聞いても、誰もおどろかなかった。でも他人を知っている気になるのなんて愚の骨頂だし、そんなものは錯覚に過ぎない。結婚するとき、私だって義母になる人に歓迎されたし、夫になる人には感謝された。知れば知るほどいいお嬢さん。義母が夫にそう言うのを聞いたこともある。私は涼子さんのことをよく知らないと断言できるし、印象だけで言うならちっとも好きになれない。でも、だからこそ、かつて義母だった人のようなふるまいはするまいと決めている。余計な口だしはすまいと。(p.482)

ジャケットの胸ポケットに、シルクのチーフを押し込もうとしたとき、指先に何かが触れた。とりだしてみると、すっかり乾いて色を失った--けれどもとは黄色だったことを僕は憶えている--、一輪の花だった。どこかの遺跡にピクニックに行ったとき、カオサが手折って挿してくれた花。生真面目で懸命だったカオサ。精一杯自分を大人に見せようとしていたあのカオサにもまた、いまの僕は想像がつかないだろう。そう思うと、けれど今度はどういうわけか、愉快さではなく淋しさを感じた。(p.540)

[amazonjs asin=”4087713660″ locale=”JP” tmpl=”Small” title=”抱擁、あるいはライスには塩を”]