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言葉は、その性質上、ものの本質を完全に表すことは出来ない。
しかし、完全な言語というものは実現可能で、実際にそれは過去に存在したのではないか、ということについて追求したのが本書。これは、相当わくわくするテーマだ。
普遍言語といえば、人工言語であるエスペラント語のことが連想されるけれども、この本で追求している完全言語はそんなスケールにとどまらない。
人類の言葉を解しない生物にどう伝えるか
たとえば、アメリカの砂漠に核廃棄処理物を埋めた数万年後、人類の言葉を解する生物がいなかったとしても、「この下に危険な物が埋まっています」ということを宇宙人に伝えるにはどうすればいいか、ということを実現する方法が、完全言語というものなのだ。
探求の第一歩は、人類が言葉を使い始めた時に使われていた言葉である「祖語」は一体何だったのか?というところから始まる。
バベルの塔の崩壊による混乱で、言語によって人々が分けられてしまう以前に、そもそも存在していたという言い伝えのある古典ヘブライ語は、祖語の有力候補ではあるが、いまやそれを証明するすべはない。
言語は、時が経つほどに変化し、分化して、数を増やしていくもので、その逆をたどることは非常に難しい。そこに敢えて挑戦するのが、完全言語の探求の旅でもある。
言葉というのは、コミュニケーションの手段であるだけでなく、力の象徴でもある。多くの賢者や魔術師は、言葉の中にこそエネルギーが宿っているものと考えてきた。
そして、言葉というのは哲学的思考の最も重要な道具でもある。だから、古代より、哲学者たちは言葉や記号については、とりわけ重点を置いて考察を重ねてきた。
この本を読むと、完全言語の実現というのが、どれほどの困難を抱えているかということがよくわかる。
エジプトや中国の象形文字は、形によって、言葉を超えて意味を伝達する可能性を持っているけれども、それでも表現出来る内容に限界がある。
最も難しいのは、この世に無数に存在する「物」や「概念」の一つ一つをどのように区別するかということだ。しかし、それらの困難を承知の上で、多くの人々を虜にするほどの魅力が、完全言語というものにはある。
その、数千年におよぶ軌跡をたどったこの本には、人類がこれまでに試みてきた、コミュニケーションの壁を乗り越えるための努力とその成果を追体験していく楽しさがあった。
名言
ヘブライ語は聖なる祖語である。アダムのつけたもろもろの名前は自然本性に一致しており、恣意によって選択されたものではないからである。(p.63)
フェン・ヘルモント自身は、言語についてまったく学んだことのない者にとってさえもっとも自然的な生まれつきのものとおもわれるような原初の言語が存在すると想定している。この言語はヘブライ語以外にはありえない。そして、ヘブライ語は人間の発声器官がもっとも容易に生み出すことのできる音をもつ言語であることをファン・ヘルモントは明らかにしようとするのである。(p.130)
アプリオリな言語があまりに哲学的であるとすれば、アポステリオリな言語はあまりに哲学的でなさすぎるのだ。(p.466)
英語が今日おさめている成功は、大英帝国がこのうえない植民地主義的ならびに商業的な膨張をとげ、アメリカ合衆国の工業技術モデルが覇権を握ったことに起因している。英語の膨張はそれが単音節語が豊富で外国語を吸収して新語をつくりだす能力をそなえた言語であるという事実によって促進されたと主張することはたしかに可能であるが、もしもヒトラーが勝って、アメリカ合衆国が中央アメリカの国家群のようにもはや強力で安定したものではなくなった小国の連合体と化していたならば、今日、全世界で英語と変わらない容易さでもってドイツ語が話されていると想定することは、はたして不可能であろうか。(p.468)
近年の研究は、アイマラ語は西欧の思考の基礎をなしている二価論理(真/偽)ではなくて三価論理に基礎をおいており、それゆえ、わたしたち西欧の諸言語が面倒な迂言法を駆使してなんとか獲得できるような繊細このうえない様態でも簡単に表現する力があることを明らかにしてきている。(p.488)
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