とても面白い本だった。
「日本人の9割に英語はいらない」という主張は、極端ではあるけれども、正論だと思う。外資企業(マイクロソフトジャパン)の社長というポジションにあったような人が、よくここまで正面から言い切ってくれたもんだと思う。
「これからの国際社会は英語が話せないと通用しない」、と危機感をあおることで儲かっているのは英会話スクールや英話教材の販売元ばかりで、教室に通っている人たちの英会話が上手くなっているわけでも、その英語が実際に役に立っているわけでもない。
何十年も前から同じことが言われ続けているにもかかわらず、英語が話せる日本人がほとんど増えていないというのは、単純に、日本に暮らしていて英語がどうしても必要になるほどの状況がまったく無いからだろう。
ほんとうに英語を習得する必要があるのは、筆者が言うとおり、仕事で海外赴任するなどの理由がある、人口の1割にも満たない人たちだけだと思う。
「英語は道具であり、学問ではない」、という主張も、その通りだと思った。いくら英語が上達しても、それは道具の使い方が上手くなるということで、思考力の根本が滋養されるような種類の学問とは違う。
日本人というのは、学問を突き詰めていくにあたって、母国語である日本語だけを使用して最先端のところまで行き得るという点で、世界的にも例外的に幸運な環境にあると思う。
日本語ほどボキャブラリーが豊富ではない言語がネイティブの場合、学問が高度な段階に達した時に、それを表現する言葉が母国語に存在しないために、他の言葉をいったん通して理解や表現をしなければいけないという事態が起こる。
僕自身は、日本語では表現できない限界というものを今までに感じたことはない。もしそういうことがあるとしたら、それは、日本語のボキャブラリーの少なさのせいではなくて、自分自身の思考力や母語運用能力の問題だ。
時間は有限のものであると考えたとき、必要以上に英語の勉強に時間を費やすよりは、日本語による表現の幅や思考を拡げる勉強をして、外国語については、どうしても必要な場面になれば自然に身につくものと割り切ったほうがいいと思った。
【名言】
英語を勉強しなければいけないと思っている人に対して、断言しておこう。
日本人で英語を必要とする人は、たったの1割しかいない。残りの9割は勉強するだけムダである。(p.27)
英語を日常的に使っていれば上達は早いが、日本では使う場所がないので話せるようにはならない。水泳のフォームをいくら陸上で練習しても、水の中に入らないと泳げるようにはならないのと同じである。
そもそもグローバル化が進んでも、市民レベルで日本人が外国人と交流する機会が増えることなどない。同じ国民同士ですら交流をもたないのに、なぜグローバル化が進むと、アメリカ人やイギリス人と交流するという発想になるのか不思議でならない。それは一部の限られた人間の話であり、普段の生活にいきなり外国人が入り込んでくることはないだろう。(p.38)
楽天の会長兼社長である三木谷浩史氏は、「いきなり明日から英語をしゃべれというのは無理な話なので、2年間の猶予を与える。2年後に英語ができない執行役員はみんなクビ」と宣言した。私が執行役員なら、早々に見切りをつけて逃げ出すだろう。(p.66)
英語さえ覚えておけば世界のどこに行っても通用するのだと思っているのだとしたら、浅はかな考えである。世界にはさまざまな言語があり、さまざまな文化がある。英語ができれば現地に溶け込めるわけでは決してない。(p.69)
英語は、コミュニケーションの道具に過ぎない。
日本人が日本語を話すように、英語圏に住んでいる人は英語を話す。ただそれだけの話である。
問題は道具の使い方よりも、話の中身なのである。(p.78)
学問は出世や就職のための道具ではない。英語は単なる道具であり、身につけても生きる力までは養えない。学び問えない勉強なのである。
これからの900時間は自分の好きなことや得意なことを追求するために学び、問うために使おう。
だからといって、何かのセミナーやカルチャースクールに通うのは学問するとはいえない。学校教育にすっかり洗脳された日本人は、通って学ばないと身につかないと思い込んでいる。だが、歴史の研究家の講釈を聞くより、書物を読むほうが自分なりの歴史観を養える。基本的に、スポーツ以外は人から習わなくても自分自身の力で学べるものである。学び問うのは教師に問うのではない、内なる自分に問いかけるのである。(p.100)
幼いころから多言語と接しているために、どの言語もまともに話せない、理解できないようになる状態を「セミリンガル」、最近では「ダブルリミテッド」ともいう。
幼児期に複数の言語を教えるのは、子供の発達や人格形成をわざわざ妨害しているようなものである。仕事の都合で海外に家族で移住するのならともかく、日本にいながら無理やりバイリンガルにする必要はないだろう。(p.138)