異端の数ゼロ


異端の数ゼロ(チャールズ・サイフェ/早川書房)

これは、最高に面白い本だった。
ゼロがインドから生まれたということや、偉大な発明だというようなことは聞いたことがあったけれど、ゼロという数字がここまで、ピタゴラスの時代から現代に至るまで、数学の根幹に関わる深く重要な概念だということは知らなかった。
たしかに、EXCELでも、数字を0で割るような式を入れるとエラーになってしまうし、0という数には、他の数ではあり得ないような独特な挙動を引き起こす性質が多い。
「無」というものを否定するキリスト教神学によって、ゼロの概念は西洋にはまったく根付かず、信じられないぐらい長い期間封印されてきた。それがいかにして、受け入れられる時がきて、定着することとなったのか、というのはかなりドラマチックな物語だ。
そこからの話しはさらにエキサイティングで、テーマは数学と宗教から科学、美術、哲学など様々なところに展開して、ついには宇宙論にまで話しが及ぶ。ブラックホールはゼロや無限大という概念無しにはどうしても考えることが出来ないものであるし、ゼロという概念を取り入れることによって、考え方が大きく進歩した分野も数多くある。
ただ一つの「0」という概念をテーマにして、ここまで壮大なストーリーを編んだ筆者の構成力はものすごいものだと思う。この著者には「宇宙を複号する」という著書もあり、こちらもやはり、とても面白いサイエンスエッセイだった。
【特に面白かった内容】
・西暦には「0年」という概念がない。だから、紀元前1年の次が1年になってしまうという致命的な欠陥を含んでいる。(p.78)
・歴史上最初の数学上の証明の一つは、正方形の対角線と辺の長さが通訳不可能、つまり無理数であることの証明だった。(p.52)
・無と無限なるものを斥けたアリストテレスの体系はアレクサンドロスの帝国が滅びた後も生き残り、16世紀のエリザベス朝時代まで生き続けた。(p.67)
・十次元や十二次元の宇宙を考える時、四次元を超えたところにある6つや8つの次元には、高さとか時間とかいう意味は与えられておらず、「何も意味しない」。虚数と同じように、計算をしやすくするための純粋に理論的な概念である。(p.272)
【名言】
ゼロが強力なのは、無限と双子の兄弟だからだ。二つは対等にして正反対、陰と陽である。等しく逆説的で厄介だ。科学と宗教で最大の問題は、無と永遠、空虚と無限なるもの、ゼロと無限大をめぐるものである。ゼロをめぐる衝突は、哲学、科学、数学、宗教の土台を揺るがす争いだった。あらゆる革命の根底にゼロ、そして無限大、が横たわっていた。(p.9)
ギリシア人がゼロを拒絶したのは無知のせいではなかったし、制約の大きいギリシアの数=形の体系のせいでもなかった。哲学のせいだった。ゼロは西洋世界の根本的な哲学的信念と衝突したのだ。ゼロのうちに、西洋世界の教義にとって有害な概念が二つ潜んでいたからだ。この二つの概念は、やがて、長らく君臨したアリストテレスの哲学を崩壊させることになる。その危険な概念とは、無と無限である。(p.56)
ギリシア人は無の概念について思索しはしたが、数としてのゼロは斥けた。そして、無限なるものの概念を弄んだが、数の領域の近辺のどこにも無限を受け入れようとしなかった。これはギリシア数学最大の失敗であり、ギリシア人が微積分を発見できなかったただ一つの理由だった。
数学者は、ゼロと無限大の数学的性質のおかげで微積分には深刻な欠陥があると知りながらも、新しい数学上の道具をたちまち受け入れた。自然は普通の方程式では語らないからだ。自然は微分方程式で語るのであり、微積分は、そうした微分方程式を立てて解くのに必要な道具なのである。(p.167)
ブラックホールは非常に質量が大きいので、相対性理論の法則にしたがう。と同時に、非常に小さいので、量子力学の領域にも属する。そして、二組の法則はブラックホールの中心で、一致するどころか衝突するのだ。量子力学と相対性理論が併存するところにはゼロがある。(p.264)
数学は「美しい」こともあれば「醜い」こともある。音楽や絵画の美しさがどこからくるのかを述べるのと同じくらい、数学の定理や物理学の理論の美しさがどこからくるのかを述べるのは難しい。美しい理論は単純で簡潔である。アインシュタインの理論は、とくに美しい。マクスウェルの方程式もだ。しかし、多くの数学者にとって、オイラーが発見した方程式(eのiπ乗+1=0)は美しい数式の模範である。このきわめて単純で簡潔な公式のなかで、数学で重要な数すべてがまったく予想外の形で関連づけられているからだ。(p.275)
ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記