峠 上中下巻(司馬遼太郎/新潮社)
この小説が面白いのは、幕末の動乱期の物語でありながら、薩摩藩や長州藩のような、維新の本筋的な諸藩や人物や出来事はほとんど直接関わってこないことで、安政の大獄や大政奉還のような事件は、遠い国での話しのように、時代の中の点景として描かれているところだ。
主人公の河井継之助が属している長岡藩は、越後にあるという、土地の悪条件のせいで、江戸や京都で繰り広げられている情勢からは遠い距離にあるために、どうしても風雲の中心に加わるということが出来ない。
どちらかというと、幕府側の立場から出来事を見ているので、福沢諭吉や福地桜痴のような、幕末の江戸周辺にいる人物が詳しく描かれているというところが面白い。
河井継之助は、歴史上、それほど有名でもないし、かなり性格的にも偏りがあるキャラクターで、ちょっととっつきにくいのだけれど、そういう人物を中心に一つの物語を組み立てているところがすごい。
幕末期の話しというと、薩摩長州土佐や、新選組などを中心にした、華々しい物語の部分にスポットが当てられることが多いけれども、その影には、やはり同時代を経験した、大小様々な藩それぞれの思惑や事情があるはずで、そういう、大きな光の陰に隠れた視点から、明治維新というものを眺めることが出来るというのは、とても新鮮だった。
【名言】
「人間万事、いざ行動しようとすれば、この種の矛盾がむらがるように前後左右にとりかこんでくる。大は天下の事から、小は嫁姑の事にいたるまですべてこの矛盾にみちている。その矛盾に、即決対処できる人間になるのが、おれの学問の道だ」
と、継之助はいった。即決対処できるには自分自身の原則をつくりださねばならない。その原則さえあれば、原則に照らして矛盾の解決ができる。原則をさがすことこそ、おれの学問の道だ、と継之助はいう。それが、まだみつからぬ。(上巻p.42)
たとえば、継之助の問題である。人間であって、日本人である。日本人であって、武士である。武士であって、越後長岡藩で百石取りの境涯である。いま、尊皇攘夷と尊王倒幕のイデオロギーが時勢をふっとうさせているが、これにどう対処すべきか。
「おれは、越後長岡藩士という立場を、一分たりともはずさぬ。その範囲内で深く井戸を掘るように考えてゆく。やみくもに凧糸のきれた凧のような志士になって時勢を論じたところでなにになろう。おれの人間稼業をいきいきとやってゆくには、越後長岡藩牧野家の家来という立場を放さず、離れぬことだ。人はみなそうあらねば、宙に浮いたような一生を送ってしまう」(上巻p.197)
(人の世は、自分を表現する場なのだ)
と思っていた。なにごとかは人それぞれで異なるとしても、自分の志、才能、願望、うらみつらみ、などといったもろもろの思いを、この世でぶちまけて表現し、燃焼しきってしまわねば怨念がのこる。怨念をのこして死にたくはない、という思いが、継之助の胸中につねに青い火をはなってもえている。(上巻p.287)
「いずれは?」
「そう、いずれは藩のほうからおれを呼びにくる」
「来なければ?」
「酔生夢死だな。為すこともなくこの世に生き、そして死んでゆく。その覚悟だけはできている。この覚悟のないやつは、大した男ではない」(上巻p.337)
「彦助、犬死ができるか」
途中、継之助がいった。
「おれの日々の目的は、日々いつでも犬死ができる人間たろうとしている。死を飾り、死を意義あらしめようとする人間は単に虚栄の徒であり、いざとなれば死ねぬ。人間は朝に夕に犬死の覚悟をあらたにしつつ、生きる意義のみを考える者がえらい。」
「はい」
彦助は提灯の灯を袖でかばいつつうなずく。
「いま夜道をゆく」
継之助はいう。風がつよい。
「この風が、空だを吹きぬけているようでなければ大事はできぬ」
「と申されまするのは?」
「気が歩いているだけだ」
「ははあ」
「肉体は、どこにもない。からだには風が吹きとおっている。一個の気だけが歩いている。おれはそれさ」(中巻p.23)
「ねがわくは一生、拍子木をたたいて時に青楼に登る、という暮らしがしていものだ」
シナ人の張が、声をあげた。
「それは老荘の極致ですね。カワイサンは老荘の学問をおやりになったのですか」
「いや、私は孔孟の徒だよ。一生あくせく現実のなかにまみれて治国平天下の道を尺取虫のように進もうという徒だ」
「であるのに厭世逃避のあこがれを」
「持っているさ。しかし息せききった仕事師というのはたいていそういう世界にあこがれている。よき孔孟の徒ほど、老荘の世界への強烈な憧憬者さ。しかし一生、そういう結構な暮らしに至りつけないがね」
「西洋には」
と、若いスイス人がいった。
「汝ニ休息ナシ、という諺があります」
「なんのことだ」
「神が天才にあたえた最大の褒め言葉です」
「わからん」
「その才能をもってうまれたがために生涯休息がない。そういう意味です。汝ニ生涯休息ナシ」
「私が天才かね」
「そのように思えます」
「天才とは戦国のころ私の故郷から出た上杉謙信とか、尾張から出た織田信長に対することばだ。なるほどかれらの生涯は死に至るまで休息がなかった」(中巻p.157)
継之助のみるところ、福沢諭吉は奇人どころではなく真実を露呈しきっている人間なのである。福沢の場合、思想と人間がべつべつなのではなく、思想が人間のかたちをとって呼吸し、行動している。そういう人間であるには、ときには命をもうしなうほどの覚悟と勇気が要ることは、継之助は自分の日常の内的な体験でよく知っていた。(中巻p.407)
政治家というものは天下の半ばを動かすだけの声望と権力が必要だ。その声望をつくりあげ、権力をつくりあげてはじめて一個の政治家ができあがるというのに、
「この河井継之助は何者か」
という。
「七万四千石という小藩の一家老にすぎぬではないか。長岡藩の藩札とおなじだ。おなじ越後でも藩外の小千谷へゆけばもう通用しない」
そう言ってから、継之助は笑いだした。
「惜しいことだ」
みずからを、そういった。その境遇さえ変えれば一国一天下を動かしうる器才であると自分でも自分をそうおもっているのであろう。(下巻p.28)
長岡という小藩にうまれたことは継之助にとって不幸であったが、長岡という小藩にとっても継之助を生んだことは不幸であった。継之助は、長岡藩という藩に対し、分不相応の芝居をさせようとした。(下巻p.347)