単純な脳、複雑な「私」


単純な脳、複雑な「私」(池谷裕二/朝日出版社)

とても面白い本だった。
脳科学の最先端の、おそらく本来はずっと込み入った話しだっただろうテーマを、高校生たちに理解出来るような形で講義をしたものなので、話題としても興味深い上に、かなりわかりやすい内容だった。
脳のことというのは、知れば知るほどに不思議で、それを突き詰めていくと、自分の自由意志とは何か、とか、生物とは?人間とは?というような哲学的な命題に行き当たるところがまた魅力的だ。
ページの端に描いた絵でパラパラマンガのようなものを用意して、動画的な内容を表現するようにしたり、本という媒体で、出来る限り実際の講義に近い内容を伝える意気込みが感じられる。
こういう、学者としても新しい研究を地道にやっていながら、それを人にわかりやすく伝える能力と熱意がある人というのは、とても貴重だと思う。

【特に面白かった話し】
・脳は、身体の反応によって、事後的に自分の感情を意味付けする。理由づけをせずにはいられない。(p.51)
・サブリミナルでわかるように、意識にはのぼらないことでも、無意識では正確に物事を把握していることがある。直感は、その無意識の判断によるもの。(p.78)
・進化の過程では、ある形質が本来の目的とは違う目的に転用される(前適応)ことがよくある。「のけ者にされた時」に感じる痛みは、痛覚を転用して、同じ部分が反応するように進化した。(p.165)
・耳の有毛細胞は、精密なナノテク装置。(p.219)
・視覚や皮膚の感覚などは、数種類に限った感覚をミックスして把握しているけれど、嗅覚は400種類もの受容体を用意している。
・目の網膜は、効率が悪い、進化の上での失敗作と思われる構造をしている。(p.232)
・昆虫や鳥は紫外線が見える。昆虫は偏光さえも感じる。人間の赤青緑の3原色を見ている色感覚は、動物のなかではマイノリティ。
・自分が手を動かそうと「決定した」と思うよりも早く、脳内ではすでに「決定」がおこなわれている。(p.249)
・脳ではゆらぎが常におこっているので、タイミングによって出力が毎回異なる。(p.273)
・自分が何かをしたいという欲求は無意識におこるので、自分の意思ではどうにも出来ないが、それを否定することは意思がかかわる。(p.282)
・脳のゆらぎ(ノイズ)は、「ベキ則」に従っているので、ちょうどよいゆらぎが発生している。そのノイズを生み出しているのはニューロンのネットワークの構造で、その構造こそが決定的に重要。(p.365)
・自分で自分をコントロールするには、自分の状態を知るためのフィードバックが必要不可欠。(p.369)

【名言】
重要なことに、基底核は計算ミスをしない。箸を持つのに毎回失敗しないですみますね。正確無比なのです。そうした高度な記憶を操るのが基底核。だから基底核の作動は、無意識かつ自動的かつ正確だと言えるのです。(p.82)

記憶というと、脳の中に保管された文書が、コンピュータのデータのように、そっくりそのまま保管されるように考えている人もいるかもしれないけど、実はそんなことはない。すごく曖昧で柔らかい方法で貯えられているんだ。しかも、このふたつの例のように、記憶が呼び出されるときに、その内容が書き換わってしまうこともある。
つまり、情報はきちんと保管され、正確に読み出されるというよりも、記憶は積極的に再構築されるものだってこと。とりわけ、思い出すときに再構築されてしまうことがポイントだ。思い出すという行為によって記憶の内容は組み換わって新しいものになる。それがまた保管されて、そして次に思い出すときにもまた再構築されていく。
記憶は生まれては変わり、生まれては変わる。この行程を繰り返していって、どんどんと変化していく。だから「見た」という感覚がいかに怪しいかがよくわかる。(p.134)

視覚だったら、色は赤緑青の3色で表現されるよね。味は<塩味><酸味><甘み><苦味><うまみ>の5種類。皮膚の感覚も、温覚、冷覚、圧覚、痛覚など、せいぜい数個に限られる。こうした生体のしくみが示していることは、感覚器は、世界の圧倒的に多様な情報量を、かなり少ない要素にまで一気に落とし込んで感受しているということだ。このように、感覚器は洗練されたシステムなんだ。
ところが、<におい>だけは例外。たくさんの種類を嗅ぎ分けるために、たくさんの受容体を用意している。どのくらいあるかというと、400種類近くある。(p.224)

僕らって互いに異なる個性があるとは言いながらも、大ざっぱには同じだよね。だって、腕は2本ずつあって、脚も2本あって、手指も10本あって、目や耳はふたつあって。
脳回路を開いてみると、分子レベルや細胞レベルの細かい点では個人個人に差異があるけど、大ざっぱには脳はほぼ同じ構造をしている。
一般に、構造さえ似ていれば、結局は似たようなアウトプットが生まれるという現象がある。結局は、構造や形態こそが、生命活動の要なんだ。逆に言えば、構造が保たれている限りは、だいたい共通の「認識」が生まれうることになる。(p.230)

手首を動かしたくなったとき、たしかに、その意図が生まれた経緯には自由はない。動かしたくなるのは自動的だ。でも、「あえて、今回は動かさない」という拒否権は、まだ僕らには残っている。この構造は決して「自由意思」ではないよね。自由意志と言ってはいけない。「準備」から「欲求」が生まれる過程は、オートマティックなプロセスなので、自由はない。勝手に動かしたくなってしまう。
そうじゃなくて、僕らに残された自由は、その意思をかき消すことだから、「自由”意思”」ではなくて、「自由”否定”」と呼ぶ。(p.282)

ニューロンを何にたとえようかと考えて、これまで、いろいろと思いを巡らせたんだけど、「鹿威し」にたとえるのがいい・・と思っているんだ。(p.325)

僕らはリカージョンによって、はじめて「無限∞」という概念が獲得できるんだ。リカージョンのできない動物は、「無限」なんて奇妙な概念は理解できないだろう。無限は実在しないからね。
ちなみに、ヒトでも幼少時は、まだリカージョンがうまくできない。成長の過程であるとき、自然に数字を操作できるようになる。リカージョンが自由に行えるようになる、その瞬間に「無限」の意味も理解可能になる。
君らも成長の過程で、「あれ?」って、無限の不思議に気づいた瞬間があると思う。(p.379)