パイドン(プラトン/岩波書店)
ソクラテスが、刑死の直前に周りの弟子たちと語ったという設定で書かれた、「魂の不死」についての対談。なぜ、ソクラテスが「悪法も法なり」と言って、毒杯をあおることに少しもためらいがなかったのか、これを読むととても腑におちる。
この、現世での「生」以上に、自分自身の思想に殉じる姿は、吉田松陰を連想させた。
テーマとしては、「肉体が滅ぶと共に魂も滅ぶのか、それとも、肉体が滅んだ後にも魂は残るのか」という、普遍的なテーマではあるけれど、そんじょそこらの宗教家や哲学通が語る生半可な死生観とはわけが違う。なにしろ2000年以上の長きにわたって生き残ってきた、名演説なのだ。
どういでもいいような細部には用心深くこだわる周りの弟子たちが、大筋では意外とあっさりとソクラテスの主張を認めてしまうところは、ちょっとおかしな感じはするけれど、この、丁寧な論証の仕方は見事だと思う。
面白いのは、この「魂の不死」という概念が、ユダヤ教やキリスト教のような、いかなる宗教とも無関係に、論理によって導かれた結論として語られていることだ。それにもかかわらず、この、古代ギリシア人の考えは、現代においても広く信じられている概念ととてもよく似ている。
一つのことを説明するのに、どれだけ細かく論理の積み重ねをする必要があるのかと、あきれるぐらいまわりくどいのだけれど、これこそが、ロゴスによる思考の原点なのだと思った。
【名言】
これからあの世へ旅立とうとしている者が、あの世への旅路について、それがどんなものであるとわれわれが思っているのかを、検討したり物語ったりすること以上に適切なことは、おそらくないだろう。じっさい、日没までの時間のあいだに、他になにをすることができるだろうか。(p.22)
正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ。そして、死んでいることは、かれらにとっては、誰にもまして、少しも恐ろしくないのである。(p.38)
もしもある人がまさに死のうとして怒り嘆くのを君が見るならば、それは、その人が哲学者(知恵を愛する者)ではなくて、なにか肉体を愛する者であったことの、充分な証拠となるのではないか。おそらく、この同じ人は金銭を愛する人でもあり、名誉を愛する人でもあるだろう。そのどちらかであるか、その両方であるだろう。(p.39)
もしも、一方の生成が、ちょうど円環をなしてめぐるように、他方の生成をつねに補うのではなく、かえって、生成が一方からその正反対のものへのみ向うなにか直線的なものであって、再び元へ戻ることもなければ向きを変えることもないとすれば、万物は最後には同じ形をもち、同じ状態となって、生成することを止めてしまうだろう。(p.53)
私はそれまでにもソクラテスという方にしばしば驚いたことがあるのですが、あの方が答えるべき言葉をお持ちだったことは、おそらくなにも驚くべきことではないでしょう。だが、私があの方について特に驚嘆した点は、先ず、あの方が若者たちの議論をなんと楽しげに、好意をもって、そして感心しながら受け取られたかということ、それから、かれらの議論によってわれわれがどんな精神状態に陥ったかをなんと鋭く見抜かれたかということ、さらには、そういうわれわれをなんと見事に癒してくださったかということ、なのです。(p.100)
そうすると、死が人間に近づくと、思うに、人間のうちの可死的な部分は死ぬが、不死なる部分は、死に対して所を譲って、安全に滅びることなく立ち去ってゆくのだ。(p.150)
われにもあらず、どっと涙があふれでて、私は顔を覆ってわが身を嘆きました。そうです、あの方の身を嘆いたのではありません。私自身の運命を嘆いたのです。私はなんという友を奪われてしまうのか、と。(p.175)