先生はえらい


先生はえらい(内田樹/筑摩書房)

タイトルからは、どんな内容なのか想像がつかない本。
結論としてはたしかに、「先生は、その定義からしてどんな場合でも必ずえらい」というところに持っていくのだけれど、それは話題のきっかけに過ぎず、「人から学ぶ」というのはどういう現象なのか、ということについて主に語られている。
面白いと思ったのは、コミュニケーションは誤解の余地が残されているからこそ質の高いコミュニケーションになる、ということだった。これは経済活動においても、何かを教えるということとも関わっていて、一見すると効率からはかけはなれた「無駄」や「曖昧な部分」があるからこそ上手く機能することが多くある、という。
たとえば、著者が「あべこべ言葉」という用語で表現した、「適当」や「いい加減」のようにまったく真逆の二つの意味を同時に持つ単語というのは、どの言語にもあり、それはコミュニケーションに曖昧性を持たせようとする、本能的な性質であるらしい。
その、完全じゃない部分を補う想像力を人は持っていて、そこにこそ豊かさが生まれるというのは、言われてみればその通りのことだ。ちょっと変わった視点からの話しの展開ばかりなので、どんな人が読んでも、新しい気づきを与えられる本であることは間違いないと思う。
【名言】
私たちが「この先生から私はこのことを教わった」と思っていることは、実は私が「教わったと思い込んでいること」であって、先生の方にはそんなことを教える気がぜんぜんなかった、ということがあります。
というか、教育というのは本来そういうものなんです。(p.41)
対話において語っているのは「第三者」です。
対話において第三者が語り出したとき、それが対話がいちばん白熱しているときです。
言う気がなかったことばが、どんどんわき出るように口からあふれてくる。自分のものではないようだけれど、はじめてかたちをとった「自分の思い」であるような、そんな奇妙な味わいのことばがあふれてくる。
見知らぬ、しかし、懐かしいことば。
そういうことばが口をついて出てくるとき、私たちは「自分はいまほんとうに言いたいことを言っている」という気分になります。(p.62)
ここで、たいせつなことをみなさんに一つ教えておきます。それは、人間はほんとうに重要なことについては、ほとんど必ず原因と結果を取り違える、ということです。
コミュニケーションはその典型的な事例です。
私たちに深い達成感をもたらす対話というのは、「言いたいこと」や「聴きたいこと」が先にあって、それがことばになって二人の間を行き来したというものではありません。そうではなく、ことばが行き交った後になって、はじめて「言いたかったこと」と「聴きたかったこと」を二人が知った。そういう経験なんです。(p.72)
古典といわれるほどの書物は、小説であれ哲学書であれ、読者に「すみからすみまで理解できた」と決して言わせないような謎めいたパッセージを含んでいます。これはもう必ずそうです。構造的にそうなんです。(p.135)
教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、すくなくとも見掛け上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っているのです。(ジャック・ラカン「教える者への問い」)(p.170)
子どもは彼が生まれる以前に成立した言語に絶対的に遅れて生まれます。言い換えれば、子どもは「すでにゲームが始まっており、そのゲームの規則を知らないままに、プレイヤーとしてゲームに参加させられている」という仕方でことばに出会うわけです。(p.172)