音楽誌が書かないJポップ批評 Mr.Children


音楽誌が書かないJポップ批評 Mr.Children(別冊宝島編集部/宝島社)

30人くらいのライターがそれぞれ思い思いの記事を書いたものを寄せ集めた本。宝島の編集だけあって、全体的にかなりマニアックな傾向に偏っている。ミスチルがこれまでにリリースした全アルバムと全曲を網羅した解説集付きという、執拗なまでのこだわりもスゴい。
書き手によってその切り口はかなりまちまちで、内容も玉石混交ではあるけれども、この混沌さがいい。特に面白かったのは、ポカリスエットのCMで使われた「未来」のサビ部分15秒が何故これほどキャッチーなのかを分析した記事と、中原中也と桜井和寿の共通点について分析した記事だった。こういうマイナーなテーマは、確かに一般の音楽誌はあまり書かないだろう。他の記事もニッチな視点満載で、かなり密度の濃い本だった。
【名言】
そもそも相反関係にある「深海」と「BOLERO」が組み合わさって、「ホワイトアルバム」になる可能性も排除できないだろう。しかし、この時期のミスチルにそこまで屈強な心技体を期待するのは尚早だったし、まだ「物語」は序章を終えようとしているにすぎなかったのだ。蛇足ながらそんな仮定を持ち出したのは、05年のヒット曲「未来」における「陽/陰」の圧倒的な融和について触れておきたかったからだ。2枚に分離したアルバムを作ることでしか「両面価値」を表現できなかった時期のミスチルと比して、この「未来」1曲で彼らは希望と怖れの両方を瑞々しく消化させている。(p.176)
周知の通り、ミスチルはJポップ界有数の人気を誇り、そのCDは百万枚単位で売れる。一方、中原中也の処女詩集は初版200部しか作られず、初版600部の第2作が世に出た頃にはすでに彼はこの世にいなかった。その差をもたらしたものは、中也の夭折という事情だけではない。両者とも青春、ありていにいえば「若気の至り」というものをうたっているが、その需要が違いすぎるのだ。中也が生きていた時代、青春というものはほんの一部の人のものだった。こういうと奇異に感じる向きがあるかもしれないが、「青春」とは近代の産物で、それ以前は「大人」と「子供」という区分しか存在しなかったのである。(p.292)