『人間自身考えることに終わりなく』【池田晶子】


人間自身考えることに終わりなく(池田晶子/新潮社)

池田晶子さんは、今年の2月に急逝した。

そのあまりに早い死に、愕然として訃報を聞いた。

いつか、一度は話しをしてみたいと思う人だった。

つい近年、「14歳の哲学」という本が売れたことで名が知れるようになったけれど、それ以前は、ひたすら自分の思索を追及して、流行にのるようなことをせず、したがってまったく無名であり続けた人だった。

彼女のことを知ったのは、大学時代、石井が「帰ってきたソクラテス」という本を貸してくれたことが始まりだった。
そこには、それまでに触れたことがない、まったく新しい思想とロジックが満ちていた。

「考える」とはどういうことなのか、「生きる」意味とは何なのか、そういった本質的な事柄を根本から見直すきっかけを与えてくれた本だった。
もし、大学時代に彼女の言葉に出会っていなかったら、その後の自分の人生も、少なからず変わっていたに違いないと思う。

この「人間自身考えることに終わりなく」という本は、池田さんが死の直前まで連載をしていた文章を集めた、遺作ということになる。
相変わらず、言っていることは昔とまったく変わっていない。ただ一つのことを、彼女は言葉を変えながら、ひたすら言い続けていたのだ。

もう新刊が読めないのは寂しいことだけれども、彼女の思想の形は、自分の中にインストールされて、いつでも取り出せるところに入っている。
これからも自分はずっと、その言葉を折にふれ思い出しながら、生きていくのだろうと思う。

名言

生命は素晴らしい、生きていることは奇跡的だと礼賛するなら、死ぬことだって、同じく奇跡的なことのはずである。
どうして生きていることばかりを奇跡と言って、死ぬことのほうを軌跡だとは言わないのか。

「生命の神秘」と、口では言うが、本当の神秘を感じているのではないからである。
そういう場合の生命礼賛の本意は、たんに、生きていればいいことがある。
いろいろ楽しいことができるからといった類のものである。
だから、楽しいことができなくなると、「生きていてもしょうがない」と、こう簡単に裏返る。
それでどうして生命の神秘なのだろうか。

以前、子供が事故か殺人かで亡くなった小学校の先生が、「生きていればいいことがあったのに」と、子供たちに話していた。
こういう教育はよくない。
生きていれば悪いこともあるじゃないかと反論されたら、どう答えるつもりだろう。

子供にいきなり生命は尊いと教えるのは無理である。
「なぜ」それが尊いのかを実感していないからである。
尊いと実感できるのは、それが神秘なものだと気がつくことによってでしかない。
これは自分の力を超えている、自分にはこれは理解できない。
こう気づくことによって、人は初めてそれを敬うという気持ちになるのである。

大人が忘れているのだから仕方ない。
「生命」と言えば、生の側、そのあれこれのことしか思わない。
権利意識としての生命尊重である。
そうでなければ、科学主義が喧伝する仕方での「生命の神秘」である。
精子と卵子が結合する確率は何十億分の一である。
それは奇跡的な確率である。
私の存在は奇跡的である。
あなたも私もかけがえのない存在であるという、あのノリである。

しかし、いかに奇跡的な確率であれ、確率であるということは、可能であるということだ。
可能なことは、可能なのだから、奇跡的なことではない。
確率は奇跡ではあり得ないのだ。

本当の奇跡は、自分というものは、確率によって存在したのではないというところにある。
なるほどある精子と卵子の結合により、ある生命体は誕生した。
しかし、なぜその生命体がこの自分なのか。
その生命体であるところの自分は、どのようにして存在したのか。

これはどう考えても理解できない。
なぜこんなものが存在しているのかわからない。
だから、奇跡なのだ。
なぜ存在するのかわからないものが存在するから奇跡なのだ。
何故存在しているかわかるのなら、どうしてそれが奇跡であり得よう。
存在するというこのこと自体は、人間の理解を超えている。

だからこそ、存在する生命は奇跡であり神秘であると、正当に言うことができるのだ。
生きることが奇跡なら、死ぬことだって奇跡である。
花が散るのが無常なら、花が咲くのも無常である。
無常だ、はかないという嘆きではない。
何が起こっているのかという驚きである。
なぜ存在するのかわからない宇宙が、なぜか自分として存在し、それが生きたり死んだりしているのを見ているというのは、いったいどういうことなのか。
生きたり死んだりしているとは、(何が)何をしていることなのか。

とまあこんなふうに、「奇跡」の意味を正確に追ってゆくと、とんでもないところに出られる。
いやでも出てしまうのである。
人生というものを、生まれてから死ぬまでの一定の期間と限定し、しかもそれを自分の権利だと他者に主張するようなのが現代の人生観である。
これはあまりに貧しい。
自分の人生だと思うから、不自由になるのである。
しかし人生は自分のものではない。
生きるも死ぬも、これは全て他力によるものである。(p.28)