悪の教典


悪の教典 上下巻(貴志祐介/文藝春秋)

ついに出た、貴志祐介氏の新刊。
上下2巻組ハードカバーの装丁や帯のコピーからして既に、禍々しいまでの雰囲気を醸し出していて、読むのが怖くてたまらないにもかかわらず、それでも読まずにはいられないというこみ入った葛藤を感じながら小説が読めるというのは、最高の時間だ。
話しの展開の仕方が、また、芸術的なまでにハマりこませる仕掛けになっていて、上巻と下巻では、装丁の違いからもわかるように、まるっきり話しのテンポが異なっている。
ジェットコースターのように、最初は、位置エネルギーを蓄えるためにゆっくりと、一つ一つのエピソードを積み重ねていきながら、少しずつ高度を上げていく。
それが頂点まで達した瞬間に、日常から非日常へと世界が反転し、怒涛の展開をみせるという、途中で抜け出せない、ものすごい作りだった。
とことんまで悪どいというだけではなく、決してその尻尾を出さないくらいに、ずば抜けて高い知能と、柔軟な社会性を兼ね備えていた場合、どのような人格が出来上がるのか。しかも、その人物が、学校という閉鎖空間で、思うがままに自由自在に振舞うことが可能だとしたら、どれだけのことが出来てしまうのか。
「この人間には心がない」というコピーの「黒い家」もかなり衝撃的な作品だったけれど、この「悪の教典」はそれをそのまま数段スケールアップした作品になっている。
貴志祐介氏は、寡作の作家ではあるけれど、人間の中に潜む静かな狂気というものを書かせたら、右に出るものはいない、極上のエンターテイナーだと思う。
【名言】
両極端は相通じるというが、彼は、もしかしたら、自分とは正反対であるが故に、同じように嘘を判別できるのではないだろうか。
他人の心を推し量ることができる多くの人は、豊かな感情の持ち主である。相手の感情に深く共感することで、その心の動きを想像するのだ。だが、蓮実の場合は、まったく逆のような気がした。彼が嘘を見破れるのは、おそらく嘘というものを熟知しているからであり、なまじ相手に共感したりしないからこそ、目が曇ることもないのでは、と。(上巻p.90)
熊谷教諭が切々と訴えた言葉は、乾燥しきってひび割れた大地に水が染み込むように、蓮実少年の心に、確実に浸透していった。
それは、ブレイクスルーの瞬間だった。それまでに蓮実少年が読み耽ってきた数多くの心理学の専門書の内容が、ようやく有機的に結びついたような気がしたのだ。
人間の心には、論理、感情、直感、感覚という、四つの機能がある。そのうち、論理と感情は合理的機能、直感と感覚は非合理的機能と呼ばれている。合理的機能には、刺激と反応の間に明確な因果関係があり、非合理的機能は、次にどういう動きをするか予測がつかない。
つまり、感情の動きには、論理と同様に、法則性があるということだ。人間の感情は、他人から認められたい、とか、求められたい、というような基本的な欲求が、その根底をなしており、軽んじられたり攻撃されたと思えば、防衛反応がはたらいて攻撃的になる。その逆に、相手の好意を感じたときは、こちらも好意的になる・・。
要するに、まったく感情というものが欠落している人間がいたとしても、きわめて高い論理的能力を持ち合わせていれば、感情を模倣《エミュレート》することは可能だということだ。
まず、人の感情のパターンを収集する必要があった。そして、それがどういう場面で、どういう反応をするかを予測し、結果を見て、その都度、間違いを修正する。そうして、それらと同じように反応する擬似的な感情を心の中で育てていけば、最終的に、それは、本物の感情とほとんど見分けがつかないものになる。(上巻p.267)
生徒たちと接するときには仮面をつけていると思っていたが、その下には、何もない。人間らしい感情というものが、最初から欠落しているのだ。
かすかに、身体が震え始めた。渋谷で遊んでいるときに、不良外国人や本物のヤクザたちも大勢見る機会があったが、これほど非人間的なやつはいなかったと思う。(下巻p.44)
「かりに、殺人が一番明快な解決法だとわかっていたとしても、ふつうの人間は躊躇する。もし警察に発覚したらとか、どうしても恐怖が先に立つんだ。しかし、俺はそうじゃない。X-sportsの愛好家と同じで、やれると確信さえできれば、最後までやりきることができるんだよ。X-sportsと同様、途中でためらうとかえって危険だけど、思い切って突っ走れば、案外走りきれるものなんだ。・・どうだろう。こんな説明で、わかってくれたかな?」
圭介は、絶句していた。目の前にいるのは、単なる殺人鬼ではなく、宇宙人よりもなお理解不能な存在だった。(下巻p.51)
「正直に言うが、日本人は、みな羊だと思っていた。ところが、君は、他の生き物を見境なしに襲い、平気で共喰いもする肉食の羊だ。君は、狼の目から見ても異様な怪物なんだ。この世界にいられては、はなはだ迷惑なんだよ」(下巻p.111)
ここには、ライバルはいない。それが、周囲の教員たちを見回したときの感想だった。
彼はは、誰一人として、本物の競争に晒されたこともなければ、本当に恐ろしい相手と向き合った経験もなかった。学校とは、よどんだ池のようなものだ。ザリガニやナマズが威勢をふるい、せいぜい、何かの間違いで棲みついたワニガメやブラックバスがいる程度の場所なのだ。怪物鮫との戦いで傷つき、しばし海から撤退して身体を癒そうとしているオオメジロザメにとっては、周囲が餌ばかりという理想的な隠れ場所である。(下巻p.120)
ここが、引き返し不能点《ポイント・オブ・ノー・リターン》だった。
今ならまだ、止めることができる。しかし、この先へ進むと、もう取り返しがつかない。(下巻p.186)
蓮実教諭は、瞬きもせずに、じっとこちらを見ていた。
下鶴刑事は、背筋がぞくりとするのを感じた。この男は、聴力の不足をカバーするため、唇を読んでいる・・。(下巻p.384)