『神々の沈黙』人類が意識を持ったことは進化か退化か


神々の沈黙(ジュリアン・ジェインズ/紀伊國屋書店)

今から3000年以上前の人々には「意識」がなかったのだという仮説を、「イーリアス」「オデュッセイア」などの古代の様々な文献や、壁画などの資料を基に、丹念に検討して解明していく、巨大スケールの解説書。

とにかく、古代文明についての調査の細かさと、その仮説の隙のない緻密さがハンパじゃない。

「意識」がなかった時代、人はどうして生活をしていたかというと、「右脳に聞こえてくる神々の声」に従ってすべての行動を決めていたのだという。
今から3000年前というと、人類の歴史からすればつい最近のことで、これはびっくりする話しだ。

人は、自分の「意識」というものをかなり信頼しているけれど、それは、「意識」=「自分」という思い込みがあるからだ。

「我思うゆえに我在り」とは言っても、思わなかったことは自分自身では把握出来ないのだから、「我思わなかったとしても我在り」なのかもしれない。

「意識」というものは実は、アイデンティティーをそれほど明確に保障してくれるものではないだろうと思う。

学問的には、この本で説明されていることはまだ仮説の段階なのだけれども、これだけ筋道だった解説で、はっきりとした証拠を挙げられると、疑う余地がないくらいの説得力を感じる。

ある程度以上の人口が集まれば、そこには国家や文字を成立させなければいけない事情が生まれて、それらをきちんと存続させるには、どうしても「意識」を人が持たなければならなかった。
そして、いったん意識を持ってしまった人類は、もう、元の「意識がなかった」状態には戻ることは出来ない。

自分の意識というものを持たず、頭の中に聞こえる声に忠実に従って生きるというのは、現代の感覚からすると奴隷のような不自由さにも思えるけれど、悩みを持つことがない分、幸せな気もする。

「意識」を持つことと引き換えに神の声が聞こえなくなるというのは、人類にとって進化ではなく、退化だったのかもしれないと思う。

名言

進化の不連続性は恐ろしいまでに厳然としていた。とりわけ、人間の意識の働きが、生物界一般の漸進的発達、さらに人類の肉体の進歩を決定したのと同じ法則によって進化したはずはなかった。(p.20)

人類と言語と都市が<二分心>に基づいて組織されるならば、いかなる歴史もほんの一握りの決まったパターンしかとりえないのではなかろうか。(p.192)

ギリシアの意識ある主観的心は、歌や詩から生まれた。この心は、そこから固有の歴史的変遷を遂げ、ソクラテスの<物語化>による内観へ、アリストテレスによる空間化された分類・分析へつながり、さらに、そこからヘブライ思想、ヘレニズム思想、ローマ思想へと発展する。そしてそれに続き、ギリシアの意識ある主観的心のおかげで、二度ともとへは戻れぬ世界の歴史が始まったのだ。(p.354)

しかし、話を先に進めよう。意識が心の営みに占める割合は、私たちが意識しているよりははるかに小さい。というのも、私たちは意識していないものを意識することができないからだ。これは言うのはたやすいが、十分理解するのはなんと難しいことか。暗い部屋で、まったく光の当たっていない物を探してほしいと、懐中電灯に頼むようなものだ。懐中電灯はどの方向にあろうと自分が向く方向には光があるので、どこにでも光があると結論づけるに違いない。これと同じように、意識は心のどこにでも行き渡っているように思えてしまう。実際にはそうではないのに、だ。