ウォーレスの人魚(岩井俊二/角川書店)
岩井俊二氏は、映画監督としてだけでなく、小説家としても尋常でない力量の持ち主なのだということが、この本を読んで充分すぎるほどに伝わった。
映画を作るかたわらに、これほど面白い物語を書くというのだから、どれほど多才な人なのだろうと思う。
ダーウィンと同時期に、進化論についてほぼ同じ結論を導き出していた、アルフレッド・R・ウォーレスという学者をモデルに、そのウォーレスが香港で人魚に出会うところから物語は始まっている。
人魚というと、メルヘンチックな雰囲気があるけれど、この作品の中の人魚は、徹底的にリアルに描かれている。
進化論の学者であるウォーレスが主題と関わっていることからも明らかなように、人魚というものを進化論と生物学をベースにして、どこまでも学術的に追求したのが、この物語だ。
類人猿から人間への進化の間には、不思議なほどにまったく化石が見つからない「ミッシング・リンク」と呼ばれる期間がある。これを説明するためのストーリーの一つとして、この時期、いったんヒトは海に棲んでいたのではないかという、「ホモ・アクアリウス」説という仮説がある。
さらにここから、人間と人魚の分化が起こったというのは、かなり魅力的な仮説だ。人魚を題材にして、ここまでのストーリーをゼロから構築するというのは、とにかく、ものすごい想像力だ。
端々にあらわれる、言葉の選び方もすごく好きだった。
第二章のタイトルである「眷属」という言葉など、すごいセンスだと思う。
基本的には、暗く悲しく、陰鬱な物語だ。
実際に人魚というものがいた場合、人間の反応というのは、見世物にするか研究対象として解剖するか、どちらかになるだろう。
いずれにしろ、そこには美談よりは悲劇の生まれる可能性のほうが高い。
しかし、未知なるものを知ろうとすることが難しいという点では、人間と人魚の間であっても、人間同士の間でも変わりはないことだ。この本は、その難しさを乗り越えて、他者を理解することの尊さを描いた作品なのだと思った。
【名言】
とにかくイルカっていうのは音のプロフェッショナルだからな。奴らが使いこなす音の情報量はオーケストラ並みだ。我々人間の言葉とかいうのをハモニカに例えればね。(p.77)
彼等はどこからか火を見つけて来たのだ。恐らく道具を作っている時、偶然火を起こす方法を見つけてしまったんだろう。この発見は誰かが一回発見してしまえばいいのだ。(p.233)