幸福論

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幸福論(アラン/白水社)

アランの唱える「幸福論」は、どこまでも実際的で、楽観的だ。
幸福とは、ただ待って手に入るものでは決してなく、常に、積極的な行動によって近づくことが出来るものだと信じて疑わない。そして、真の喜びは、楽な生活の中ではなく、苦しみの中にこそあるのだと、このことも何度も繰り返し述べている。その意味で、アランという人は、単に幸福を求める夢想家というよりは、常にとことんまで現実に照らして物事を考えた行動家であったのだと思う。
人は、自分の想像によって自分自身を苦しめていることが非常に多いので、とにかく物事は楽観的に考えたほうがいい。そういう考えがベースにあるので、この本はどの章をとっても驚くほど前向きだ。
「こうすればいい」という具体的な指示を示してはいないけれども、ただじっとしているのではなく、何か行動として表現をしなければという気持ちに、この本はさせる。一つの章につき、2~3ページ程度の短文にまとめられているので、読みやすいのもいいところだ。


【名言】
寒さに抵抗するしかたはただ一つしかない。それは寒さに満足することだ。そして、よろこびの達人であるスピノザ流にいえば、「私が満足しているのは暖まったからではない。満足しているから暖まるのである。」だからいつでもこう考えなければならない。「成功したから満足しているのではない。満足していたから成功したのだ」と。もしよろこびを探しに行くなら、まずよろこびを蓄えることである。手に入れるまえにお礼を言うがいい。希望というものは希望する理由を生み出し、良い前兆は本物を実現させるからである。(p.69)
私としては、将来のことは考えないで、自分の足もとだけを予見しているほうがずっと好きだ。どんなにわれわれが物知りになれるにせよ、われわれの眼光がそれほど遠くまで及ぶものとは、私は考えないからだ。だれの場合でも、重大なことはすべて、思いがけなく、また予見されずに起こるものであることに、私は気づいた。(p.85)
現在というものには、いつも力と若さとがある。そして、人は確実な動きをもって現在に順応する。だれでもこのことを感じているのに、だれひとりこれを信じない。習慣は一種の偶像であり、それはわれわれが服従することで力をもつ。そしてこの場合、われわれを欺くのは考えである。われわれに考えられないことは、またなしえないことだと思われるからだ。(p.101)
戦闘はたしかに、死を考えることのもっとも少ない状況のひとつである。ここから次のような逆説が出てくる。生というものはこれを満たせば満たすほど、失う心配がなくなる。(p.125)
未来が怖ろしいなどと、きみは言う。きみは自分の知らないことを話しているのだ。出来事というのはいつだって、われわれの期待どおりになるものではない。それにきみの現在の苦痛だが、まさにそれがたいへん激しいだけに、やがて減退することを確信していい。すべては変わり、すべては過ぎ去る。この格言はしばしばわれわれを悲しませた。ずっと少ないが、ときにはわれわれを慰めることもある。(p.167)
優柔不断は最大の悪だ、とデカルトは言った。このことを彼は繰り返し言っているが、説明はしていない。人間の本性に関して、私はこれ以上の光明を知らない。あらゆる情念、その不毛な運動は、すべてこれによって説明される。運まかせの勝負事のもつ力が魂の高みにあることは知られなさすぎるが、こうした勝負が面白いのは、人を決断させる力を持っているからである。(p.235)
礼儀正しいとは、すべての身ぶり、すべての言葉によって、「苛立つまい、人生のこの瞬間をだいなしにすまい」と言うか、表情で示すかすることである。(p.255)