パレオマニア(池澤夏樹/集英社インターナショナル)
単なる旅行記とは違って、この本には一つテーマがある。
大英博物館を起点として、そこに収蔵されている美術品や遺跡のルーツをさぐりに行く旅の記録が書かれている。これは、空間と時間の両方を縦横無尽に巡る旅で、そのスケールの大きさにとにかく圧倒される。一つの博物館をきっかけにして、ここまで広い範囲まで手を広げた旅が出来るという、この着想自体にワクワク感があってとても楽しい。
エジプトやギリシャのようなメジャーどころだけじゃなく、イラン、イラク、カナダ、ベトナム、インド、など、遺跡が残っている場所という共通項をつながりにして世界中を回っているところもいい。
同じ異国の風景を見ても、人によって浮かんでくるものは違う。それは、感受性というものの他に、情報量とも大きく関連があって、その国の文化や風土や歴史などについて詳しく知っていればいるほど、多くのものが自分の中に浮かんでくるはずだ。
まったくその国についての知識がない状態や、ガイドブックをなぞっただけの知識では、その土地から連想されるイメージはとても貧しいものになるだろうけれど、この池澤氏くらいにとんでもなく博識な人であれば、一つの風景によって、次から次へと色々なものが引き出されるんだろうと思う。
この本は、だから、ものすごく頼もしいガイドと共に、世界史上の旧跡を巡る旅をしているようなものだ。世界史の教科書を読むよりも格段に面白く、しかも、思いもよらなかったテーマの話しと次々に有機的に結びついていくこの楽しさと高揚感は、「google Earth」に初めて触れた時に感じたのと似たものがある。
池澤夏樹氏以外には誰も著し得ないだろうと思う、とてもオリジナルで、価値のある本だった。
【名言】
現代の美術品はどれも作者の個性を前に押し立てている。人は自分が何者かを表現するために作る。しかし、おまえが何者かなんて、そんなことは百年たったらどうでもいいことなんだよ。大事なのはいいものが残ること。作者の名がなくてもそれ自身の力で生き残るようなものを作ること。(ギリシャ編)(p.21)
きっとエジプトには天才がいなかったのだろう。ギリシャのフィディアスのような傑出した芸術家はいなかった。天才を世に出すには選出のシステムがいる。エジプトは百万人に一人を選び出して育てるシステムを持たなかった。その代わり、優秀な職人がたくさんいた。職人たちは突出したものは作らなかったが、一定の仕事のレベルを維持した。そのレベルはそうとうに高いものだった。(エジプト編)(p.55)
旅行をしていると、この待つという時間が多くなる。すべては相手まかせで、遅れたらそれっきりだから、何をするのも早めに行って待つことになる。そして待っている間にものを考える。考えるための素材は移動の途中でたっぷりと手渡されている。人は知らないものに出会うと意味を知ろうと一所懸命に考えるものだ。(インド編)(p.78)
イギリスというのはおかしな国で、初めてのところに行っても前に来たことがあるような気がする。だいたいわれわれはヨーロッパに対して一種の既視感を持っている。幼い頃からあまりに聞き、本で読み、絵や写真を見て育ったために、何もかも知っているような気になっている。(イギリス編)(p.140)
クメールの彫刻の顔はしばしば微笑を浮かべている。それがなんとも奥行きのある、謎の微笑なのだ。とは言っても、西欧のモナリザの微笑の謎とはまるで違う。あれは要するに意味ありげなだけだ。もっと言えば曖昧で思わせぶり。それに対してクメールの微笑は天界の、人間とはまるで異なる知性たちの間で交わされる笑み、ああいう表情を持つ者こそこの世の外の精霊の世界に住む者だと思わせるような、人間界を超えた微笑だった。(カンボジア編)(p.158)
砂漠のように乾いていることは農業にとってはかえって有利だったのではないか。乾いているから一般の植物は繁茂していない。つまり伐採や開墾をする必要がない。水がないから植物がないのであって、灌漑で水を導入すれば植物は育つ。自分たちが求める作物だけを選択的に育てることができる。(イラク編)(p.202)
エジプト人は最も大きなランドマークが欲しいと思ってピラミッドを造ったが、アボリジニの人々にはその必要はなかった。なぜならここには最初からピラミッド的なるものがあったから。
そして、人間が作ったものではないからこそ、こちらの方がより強く聖性を帯びている。すべての人間の魂の拠り所として厳然とそこにある。その前に立った時の安心感はピラミッドの比ではない。つまりピラミッドのほうが模作なのだ。何年もかけてそれらの遺跡を一つ一つ見てきたけれども、ウルルの前にはすべてが相対化される気がした。もう旅はやめようかと男は思った。(オーストラリア編)(p.325)
久しぶりにオベリスクの下に立って、こういうものが届く都がロンドンなのだ、と男は考えた。海外からさまざまなものが持ち込まれ、そのたびに市民は熱狂する。世界は広く、文物に満ちているということを、到来するものの一つ一つに実感する。(ロンドン編)(p.354)
数年前、男はここで黒檀の材を彫って少しばかる象牙をあしらったアフリカ人の少女の像を見て心を動かされたことがあった。値を聞いてみると買って買えない額ではない。しかし、こういうものは買わないというのが男の方針だった。なぜならば、大英博物館と張り合うのはそもそも無理だから。
本当によいものはあちらにある。いつ行っても見ることができる。言ってみれば預けてあるようなもので、すべて自分のものと考えることもできる。そういうありがたい場所としてあの施設があるのだ。(ロンドン編)(p.360)