【読書メモ】『会って、話すこと』

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田中泰延さんの、文章の中に散りばめられているギャグが最高に好きで、書き言葉でここまで笑うことはなかなかない。

多くの会話術の本には、定番のように「相手の話にうなづいて、相槌をうつ」「相手の言ったことを繰り返す」「面白いと褒める」など、ちゃんと聞いているというサインを出すことが大事、と書いてある。
最近読んだ「LISTEN」という本にも、だいたい同じようなことが書いてあった。

田中さんは、そうじゃない、と言う。
そこまで訓練をしないと他人の話を聞けないということは、結局、人間は他人の話を聞きたくない、ということではないか。
「わたしの話を聞いてもらわなければならない」
「あなたの話を聞かなければならない」
その2つの考えを捨てたら楽になる。
これはたしかに、今まで考えたことがなかった新しい視点だった。

僕自身、人の話しを聞いている分以上には、自分の話をしないようにしようと心がけてきていた。
自分の話よりもまず、人の話を聞くことを優先することが礼儀だろうと思っていた。
でもそこには、ギブアンドテイクの取り引きのような、味気無さがつきまとう。

では、何を話せばいいのかというと、自分とも相手とも直接関係のない、外部の「どうでもいい話し」をするのが会話の秘訣なのだという。
これは、真実なのかどうか、ちょっとわからない。
僕は、外部のどうでもいい話をするよりも、お互いの内面を深く掘り下げるような本質的な話をするほうが好きだ。

「ボケとツッコミの、ツッコミはいらない」という話も面白かった。
ツッコミは、知識も教養もたいして必要なく、せっかく身を張ってボケてくれている人の貢献を台無しにしてしまう、低俗な行為だ、と。
ボケには、さらに上をいくボケをかぶせていくのが、会話の理想的な姿であるという。

そういえば、小中学校の時の会話が楽しかったのは、それぞれが勝手にボケて、誰も他人を不自然に持ち上げようとしたり、冷めた目で批評したりする人がいなかったからだったんだな。

名言

人は、お互いに、他人のストーリーを、バックグラウンドを、想い出を、歴史を、悩みを、事情を、そんなすぐには聞きたくないのである。いや、ずっとあとでも聞きたくないことがほとんどである。
そこを早い段階で話そうとするから、会話は失敗する。相手はあからさまに拒絶したりはしないだろうが、鬱陶しさメーターというものが発明されたら、針は振り切っているはずだ。
ほとんどの人が会うなり自分の事情を話し始める。しかし、会話が上手な人、モテる人、人望のある人、お金持ちの人、話をよく聞いてみてほしい。そういう人は、「この人、自分の事情ってないのだろうか?」と思うような話題で会話をスタートさせている。(p.55)

なぜ人は勉強する必要があるのか?
それは世の中の「おもしろい会話」「楽しく盛り上がる会話」のほとんどが「知識」をベースにしているからである。
だから「知らないと何もおもしろくないし、楽しそうな会話に入れない」のである。(p.66)

「ツッコミ」とは、「私は賢くて、お前はバカ」ということだ。苦労して日常に対して仮設を提示した英雄に対して、労せずして優位に立つ、そんな甘い夢を見ている人間が「ツッコミ」をするのである。
そして、そのツッコミは、SNSにおいては「クソリプ」と呼ばれるものである。だれかが日常をおもしろくするために掲げた仮説に対して、日常や常識にのっとった正しさを主張する。(p.99)

ここで肝心なのが、会話に結論はいらないということである。よく「いいオチがついたね」などと会話を理屈っぽく終わらせようとする者がいる。また、ボケ行為を始めたものに対して「で、オチは?」などと詰め寄るものがいるが、それはボールをうまく扱えない人間の哀しい遠吠えである。その人間は、自分がおもしろいボケを被せることができないので、最高裁の裁判長のように他人を断罪して権威を保とうとしているだけである。(p.108)

ボケることは愛されることなのだ。すこしばからとおもわれることなのだ。相手を可愛いと思う感情と、すこしばかだと思う感情はかなり似ている。(p.115)

子どもを見てると思うんです。子どものイタズラとは「ボケ」であり、親のしつけとは「ツッコミ」であると。
先生や親に言われたことを通して、「自分は社会常識を身につけたぞ」っていう子、知恵を持った子から、順番にツッコミに回っていきますね。(p.124)

意識して他人同士の会話に聞き耳を立ててみると、会話には必ず「クロージングポイント」が存在する。議題についてなんとなく両者が合意した瞬間や、他愛無いことで両者が笑った瞬間である。
そのとき「会話はそこでクロージングしている」ことをわからない人間が多い。そういう人はだいたい、その後に必要ないことを言ってします。
「そうだね」という同意や、笑いが発生したらそれを逃さず、「じゃ」とか「ではまた」と終わらせてしまえばいいのだが、それができない。
普段はそんな人でも、うまく会話を終わらせている画面がある。それは、LINEのスタンプだ。LINEのスタンプは会話を終わらせるために発明されたといっても過言ではない。
話を終わらせたい人は、会話の最後にLINEのスタンプを出すような気持ちで「じゃあ」とか「ではまた」と言えばいい。それで無礼に思う人は少ない。むしろ潔い終わらせ方のほうが好感を持たれる。(p.175)

「距離感がおかしい人」というのがいる。
たいして仲良くもないのにタメ口で話してくる人、他人が言ってほしくないことを言う人、なにかにつけて意見を言おうとする人、さらには物理的に顔を近づけすぎて話す人までいる。
「人との距離の取り方のおかしさ」の多くは「欲を出す」ことに問題がある。前から話したかった人と話した時、(もっと親友っぽくなれるのでないか)と欲をかいて要らぬことを言う。
勝手に間合いを詰めて自滅するぐらいなら離れていたほうがいい。わたしがこう言うと、反論してくる者がある。
「そんなこといっても、一歩踏み込まないと、他人とは仲良くなれないだろう」
これこそわたしが50数年生きて見てきた「距離感がおかしい人」が共通して言うワードだ。
考えてみてほしい。人はどんな人に好意を持つのか。ズカズカと距離を詰めてきた人ではない。ブラッド・ピットがあなたに話しかけてきて一歩踏み込んできたか?トム・クルーズがあなたの家に訪問してきて距離を縮めてきたか?
自分がするべき仕事をしたり、自分にしかできない能力を発揮すれば、他人が距離を縮めようとしてくる。そうなればあなたが応じるか、応じないかを決めることができる。それが主体的に生きるということなのだ。(p.179)

「世の中、オンライン時代です。今日もみなさんこうしてパソコンを通じて話し合っています。でも、結局【絶対に会って話をしないとまずい】という人にはなんとしてでも会っていませんか?つまり、オンライン時代というのは、人間が他人を区別していることがはっきりとした時代なんですよ」(p.213)

異性間の付き合いでも結婚でも、友人ができるのでも、それ以外でも「人と人がつながること」すべてに共通するのは、なにかの「仕入れ」だ。別に何かの役に立てようと知識や経験を仕入れるのではない。それが偶然、何年後か、何十年後かに他人と響き合ったときが「出会い」なのではないだろうか。人生はそんな奇跡でできているのではないかと思う。(p.228)