コミュニケーションは、要らない


コミュニケーションは、要らない(押井守/幻冬舎)

タイトルがセンセーショナルだけれども、言葉通りの意味ではなくて、現状の、ソーシャルネット上や日本の言論は、とてもコミュニケーションが成り立っている状況ではない、ということを言っている本。
震災直後の混乱した時間帯に、各国の戦闘機が領空侵犯をして、日本の国防能力を測っていた、という話しなど、かなりマニアックな視点ではあるけれども、今まで考えたこともなかったことをいろいろと考えさせられた。
あえて自分は原発賛成派だ、と言ったり、インターネット上でのコミュニケーションを完全に否定していたり、この人の言っていることもだいぶ過激で偏った意見とは思うものの、自分の思うところをストレートに表現していて、誰にはばかることもなく堂々と語っているところは好感が持てた。

【名言】
ツイッターやSNSは、問題を議論する「言論空間」たり得ているか?僕はそもそも「インターネット」という空間は、コミュニケーションには向いていない世界だと思っている。
何よりもまず、ネットでのコミュニケーションの主体は個人レベルから始まってしまうからだ。メールでもブログでもツイッターでもフェイスブックでも、それを始めた瞬間、それまでの共同体を置き去りにした個人となる。(p.35)

僕は携帯電話やPCによるインターネットとはコミュニケーションツールなどではなく、世界への窓口を限定することに成功したツールだと思っている。
ひきこもりというのは顕在化していないだけで昔からいたわけだが、これらのツールが、その環境を御膳立てしたのだ。(p.42)

近代国家としての絶対条件というのは、嘘をつかないことなのだ。だから、嘘をつきまくっている中国やロシアはまだ近代国家ではない。
欧米のまともな国なら「ここから先は絶対に嘘はない」という言論空間を常に確保している。そこで違反したら即厳罰が待っている。
たとえば米合衆国議会の上院の査問に呼ばれたら、軍人だろうが誰だろうが嘘は言えない。もし嘘だとバレたら社会的に抹殺され、犯罪者として刑務所行きとなる。日本の国会の証人喚問とはレベルが違うのだ。
なぜこんな仕組みが必要かといえば、言論空間には「ここから先は嘘はなしだ」という領域を確保しないとまともな議論にならないからだ。(p.51)

今この時代に子供を持とうとするなら自分の責任で放射能の危険の度合いを調べて判断していくしかない。国が定めた放射線の基準値が適正なのかなんて、誰かに下駄をあずけている場合ではない。専門家が当てにならないのは今回の件でよくわかったはずなのだから、自分たちで判断するほかないのだ。(p.61)

普通、どの国にだって、国の存亡の危機という過去があるものだ。だが、この国は異民族に占領されたこともアメリカとの戦争での一度しかない。それもイレギュラー扱いの優しい体制だった。食料もたっぷりもらって、民主主義というオマケまでもらった。そんな歴史を持つ日本という国は、つくづく特殊なのだ。(p.63)

日本は小さな島国で逃げ場がないから、中国やロシアのようなあからさまな嘘をつく文化にはならなかった。しかし、まわりに同調するという嘘をついた。
他人に嘘をつくのではなく、自分に嘘をつく天才になったのだ。
そして、その中で言葉を便宜的に使っても良いということにしてしまったのである。(p.72)

ロジックとしての言語というのは、平たく言えば「書き言葉」のことだ。
人間は書き言葉で文章を書くことでしか論理的にものを考えるという思考回路を身につけることはできない。
そして、今、そのロジックを身につけるための「書き言葉」も急速に失われつつある。メールにブログにツイッターにと、毎日何らかの文字をモニターへ打ち続けている日本人だが、そこには「書き言葉」は存在しない。(p.75)

僕は、基本的にネットにある言葉を信用していない。
本当に大切なことはメールにも書かない。
そもそも口語が獲得する言語空間と、文語が獲得する言語空間は違う。
口語を操っていても口が達者になるだけで文章は巧くならない。時と場所が違う人間が読んだら、わけのわからない得体の知れない文字列となるだけだ。
人を説得する言葉を並べたいのなら、一冊の本を書くべきだ。ネットに膨大な言葉を書く時間と情熱があるなら、一冊の本を書いたほうがはるかに有用だ。
僕は多弁なほうだが、どんなに語ろうと一冊の本を書くことに勝るものはない。少なくとも、一冊の本の量がなければ他者に何かを説明することなどできないはずだ。(p.82)

今の時代に「創る」ということは「選ぶ」ということと同義だと僕は思っている。それ以外にクリエイティビティなんてないとすら思う。
「創る」という言葉の意味が曖昧で、あたかもゼロから何かを生み出すような誤解を招くが、それはすでにある膨大な知的資産の中から、自分の価値観に照らしあわせて必要なものを選んでいるというだけだ。(p.91)

日本人にとって日本はなぜ必要なのか。
僕自身の答えは明快にある。日本語で仕事をして、日本語でしか思考できないからだ。それが、僕が日本を必要とする理由のすべてといってもいい。
ようするに言葉だ。日本語という言論空間がなければ日本人たりうるわけがない。
僕にとって映画を作る過程において、日本語というツールは必須だ。
日本語空間でなければ自分が成立しないからだ。(p.113)

文学や音楽や絵画が文化であるように軍事だって文化だ。英語なら、「Art」という言葉を当ててもいい。日本人もかつてはそう考えていた。文化人にとって軍事的教養は必須だった。少なくとも戦国時代から明治時代まではそうだった。
戦後から突然、それがタブーになってしまったのである。
軍事と語らなくても文化人面ができるようになり、むしろ語らないことが条件とも言えるくらいになってしまった。(p.121)

いつも言うのだけれど、主人公が優柔不断であるとか、根拠を持たないがゆえに起こるドラマはドラマではない。そして、日本のアニメや漫画や小説の多くはこれに当てはまる。すべての主人公が碇シンジくんであり、アムロ・レイくんであり、彼らには一様に根拠がなく動機もない。
ようするに未熟なのだ。
未熟であるがゆえに生起するドラマはドラマとは呼ばない。ドラマとは「価値観の相克」のことだ。俺はあんたが好きだ。あんたも俺が好きだ。でも、なぜか二人は一緒になれない。これならドラマたりえる。だから、好きだということを言わないで永遠に続くドラマはドラマとはいえないのだ。(p.131)