バスカヴィル家の犬(コナン・ドイル/東京創元社)
推理小説ではあるけれども、その謎解きの部分以上にさらに、舞台の設定や情景に際立った特徴がある小説だった。
とにかく、翻訳の文章が上手い。ダートムーアの荒野のおどろおどろしい雰囲気がとてもリアルに伝わってくる。そして、その舞台の空気にふさわしい登場人物たちと、次々と起こる奇妙な事件。日本でいうと横溝正史の小説のような、土着の伝説をベースにした、見事な構成になっている。
同時進行的に色々な出来事が起こりながら、それを解決するホームズのほうも、まったく別の事件も含めて同時並行であらゆる手段で推理を進めていき、最後にそれらが一気に解決に向けて収斂していく面白さがあった。
【名言】
ところで、これはぼくの得意な道楽であって、ちがいは明白です。あなたの、ニグロとエスキモーとの頭蓋骨のちがいと同じように、ぼくの目には、タイムズの間隔のあいた五号活字の紙面と安物夕刊紙のお粗末な印刷とは大ちがいなのです。活字の判別ということは、犯罪専門家にとって、もっとも初歩的な知識の一部門です。もっとも、ぼくも若いころに一度リーズ・マーキュリー紙とウェスタン・モーニング・ニューズ紙とを混同したことがありますがね。(p.51)
「ワトスン」準男爵がいった。「犬が吠えたのだ」
彼の声がふっととぎれ、彼がにわかに恐怖にとらえられたのを知ったとき、ぼくは血管の血が凍るのを感じた。
「みなは、この声をなんといっているのですか」と彼はきいた。
「まるで無知ですからね。連中がいうことなんて問題にはなりませんよ」
「教えてください、ワトスン。連中はどういっているんです」
ぼくはためらったが、問いをかわすことはできなかった。
「バスカヴィル家の犬のさけびだといっています」
彼はうめいたが、それからしばらく沈黙した。(p.144)
ぼくはカートライトを連れてきた。おぼえているだろう、あのメッセンジャー会社の小僧さ。それであの子がパンとかきれいなカラーとかと、ぼくの質素な要求はみたしてくれた。人間はこれだけで充分なのさ。(p.187)
彼は絵の前をはなれながら、めったにみられないふき出し笑いにむせびかえるのだった。私は彼が声高く笑うのを、そうたびたびはきいたことがないが、それはかならず、だれかにとって不吉な意味をもっているものだった。(p.210)
私が丘の頂きに達したとき、太陽はすでに沈みかかって、足もとにひろがるうねりは、片がわが金緑色にかがやき、反対のがわは灰色にかげっていた。はるかかなたの地平線に、もやが低くたれこめて、そのうえに、幻めくベリヴァとヴィクスンとの岩山がうき出していた。涯しない荒地に、もの音ひとつきこえず、動くものひとつなかった。鴎か帝釈しぎかであろう、一羽の大きな灰色の鳥が蒼天にたかく舞い上がっていた。この巨大な円天井とその下の荒地とのあいだに、生きているものは、その鳥と私とだけのように思われた。(p.179)
シャーロック・ホームズの欠点の一つは、もっともそれを欠点と呼ぶとしての話だが、彼の全計画がいよいよ完成するというそのまぎわまでは、それを他人に明かすことを極端にきらうことであった。それはたしかに、ある程度は、まわりのものたちを圧倒し驚嘆させることを好むという、彼の英雄的性格からきていたことだ。それにまた、一部は職業的な用心深さからでもあって、けっして一か八かの冒険はしないということでもあった。(p.220)