虞美人草


虞美人草(夏目漱石/新潮社)

一言一句まで言葉の調子やリズムを整えることに苦心して書いている感じが伝わってきて、これは、かなり気合を込めて書いた小説なんだろうと思う。
漢文調のめんどくさい言い回しが多いので、そういうのがなければだいぶとっつきやすいんだろうと思うけれど、それも味と思って読み進めるうち、だんだん馴染んでそれほど気にならなくなってきた。
作者が登場人物の説明をする時の呼び方が面白い。「糸子」や「小夜子」は普通なのだけれど、他の人は「宗近君」だったり「小野さん」だったりで、どういう基準で呼び方を決めてるのかよくわからない。「謎の女」にいたっては、本名すら出さないで最初から最後まで通してしまう。このあたりは、書き手自身が自由に語りを入れることを楽しんでいる感じがする。
登場人物同士の関係が、やたらと入り組んでいるのだけれど、その説明の仕方が全然親切じゃないので、かなり注意して読まないと、お互いの関係がどうなっているのかなかなか理解出来ない。そこらへんは最初っから放ったらかしで、お構いなしでどんどん話しが進んでいくけれど、読んでいくうちには何となく関係がわかるようになっていく。
そのため、序盤は意味がよくわからない部分が続き、中盤以降、登場人物が一通り出つくして、それぞれのキャラクターがわかり、互いに関わり合い出してからが、一気に面白くなる。
主要人物は男3人、女3人の計6人いるのだけれど、それぞれに個性がはっきり出ていて、しかもこの人とこの人の組み合わせだとこうなる、というパターンが総当り的に出ていて、そこがかなり楽しい。
「藤尾」が悪者のように書かれているけれど、20世紀初めのモラルの価値観で考える必要はあるにしても、それほど根性が悪い人とは思えない。騒動の発端は「小野さん」の優柔不断だとしても、この人も、それほど悪いことをしている印象ではなく、どちらかというと被害者な気もする。そうすると実際に、一番たちが悪いのは、わざわざ東京まで出てきて事をややこしくした「小夜子」父娘なんじゃないだろうか。
【名言】
問題は無数にある。粟か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴織か繻珍か、これも喜劇である。英語か独乙語か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。――生か死か。これが悲劇である。(p.392)
死は万事の終わりである。また万事の始めである。時を積んで日をなすとも、日を積んで月をなすとも、月を積んで年となすとも、詮ずるにすべてを積んで墓となすにすぎぬ。(p.17)
小夜子は何と答えていいか分らない。膝に手を置いたまま、下を向いている。小さい耳朶が、行儀よく、鬢の末を潜り抜けて、頬と頸の続目が、暈したように曲線を陰に曳いて去る。見事な画である。惜しい事に真向に座った小野さんには分からない。詩人は感覚美を好む。これほどの肉の上げ具合、これほどの肉の退き具合、これほどの光線に、これほどの色の付き具合は滅多に見られない。小野さんがこの瞬間にこの美しい画を捕えたなら、編み上げの踵を、地に滅り込むほどに回らして、五年の流を逆に過去に向って飛びついたかも知れぬ。惜しい事に小野さんは真向に坐っている。小野さんはただ面白味のない詩趣に乏しい女だと思った。同時に波を打って鼻の先に翻える袖の香が、濃き紫の眉間を掠めてぷんとする。小野さんは急に帰りたくなった。(p.138)
小野さんは胸の上、咽喉の奥でしばらく押問答をする。その間に甲野さんは細い杖の先を一尺ばかり動かした。杖のあとに動くものは足である。この相図をちらりと見て取った小野さんはもう駄目だ、よそうと咽喉の奥でせっかくの計画をほごしてしまう。爪の垢ほど先を制せられても、取り返しをつけようと意思を働かせない人は、教育の力では翻えす事の出来ぬ宿命論者である。(p.203)
残念な事には、小夜子と自分は、碁盤の上に、訳もなく併べられた二つの石の引っ付くような浅い関係ではない。こちらから逃げ延びた五年の永き年月を、向では離れじと、日の間とも夜の間ともなく、繰り出す糸の、誠は赤き縁の色に、細くともこれまで繋ぎ留められた仲である。
 ただの女と云い切れば済まぬ事もない。その代り、人も嫌い自分も好かぬ嘘となる。嘘は河豚汁である。その場限りで祟がなければこれほど旨いものはない。しかし中毒たが最後苦しい血も吐かねばならぬ。(p.215)
生涯の損をしてこの先生のように老朽した時の心持は定めて淋しかろう。よくよくつまらないだろう。しかし恩のある人に済まぬ不義理をして死ぬまで寝醒が悪いのは、損をした昔を思い出すより欝陶しいかも知れぬ。いずれにしても若いうちは二度とは来ない。二度と来ない若いうちにきめた事は生涯きまってしまう。生涯きまってしまう事を、自分は今どっちかにきめなければならぬ。(p.250)
浅井のように気の毒気の少ないものなら、すぐ片づける事も出来る。宗近のような平気な男なら、苦もなくどうかするだろう。甲野なら超然として板挟みになっているかも知れぬ。しかし自分には出来ない。向へ行って一歩深く陥り、こっちへ来て一歩深く陥る。双方へ気兼をして、片足ずつ双方へ取られてしまう。つまりは人情に絡んで意思に乏しいからである。利害? 利害の念は人情の土台の上に、後から被せた景気の皮である。自分を動かす第一の力はと聞かれれば、すぐ人情だと答える。利害の念は第三にも第四にも、ことによったら全くなくっても、自分はやはり同様の結果に陥るだろうと思う。(p.264)
「こう云う危うい時に、生れつきを敲き直して置かないと、生涯不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮だけで生きている人間は、土だけで出来ている人形とそう違わない。」(p.363)
「君が面目ないと云うのかね。こう云う羽目になって、面目ないの、きまりが悪いのと云ってぐずぐずしているようじゃやっぱり上皮の活動だ。君は今真面目になると云ったばかりじゃないか。真面目と云うのはね、僕に云わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。」(p.367)