パンセ


パンセ(パスカル/白水社)

パスカルの「パンセ」とよばれているものは、そういうタイトルで一冊の本を書き下ろしたわけではなく、パスカルがあちこちにメモとして書き残した覚え書きをまとめて編集されたものであるらしい。
だから、出版社によって、その構成もいくつかレパートリーがあるようで、この白水社の「パンセ」は、語られている内容のジャンルごとに章を分けてあって読みやすかった。分冊ではなく、一冊にまとまっているところもいい。
面白いのは、優れた数学者であったパスカルが「幾何学的精神」と呼ぶ論理的な思考と並行して、「繊細の精神」と呼ぶ、情緒的な思考を併せ持っていたことで、ものすごく詩的な表現が多いことだ。
たとえば「人間は考える葦である」という言葉も、全文は結構長く、それを読むと、パスカルという人は随分と繊細な感覚を持っていたんだという気がする。

『人間は一茎の葦にすぎない。自然のうちでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。かれをおしつぶすには、全宇宙が武装するにはおよばない。ひと吹きの蒸気、ひとしずくの水が、かれを殺すのに十分である。しかし、宇宙がかれをおしつぶしても、人間はかれを殺すものよりもいっそう高貴であろう。なぜなら、かれは自分の死ぬことと、宇宙がかれを超えていることを知っているが、宇宙はそれらのことを何も知らないからである。』((p.142)

特に良いと思った言葉は、前半部分の「幾何学的精神と繊細の精神」「人間学」「法律」あたりに集中していた。
後半になると、キリスト教の話題がメインになって、このあたりは、バックグラウンドになっている聖書についての知識がないとさっぱりわからない。
語られている内容はとても幅広く、文章の長さにしても、長文といえるようなものから、数行の覚え書きのような短いものまで、雑多に入り交じっている。短いメモのようなもののほうが、はっきりシンプルに言い切っていて、好みの言葉が多い。
【名言】
(※「原○○」とあるのは原著に振られた通し番号)
理知のそこなわれることがあるように、直感のそこなわれることもある。
理知と直感とは会話によってやしなわれ、理知と直感とは会話によってそこなわれる。このように、よい会話や悪い会話は、それらをやしなったりそこなったりする。だから、それらをそこなわずにやしなっていくには、えらぶことをわきまえなければならない。ところで、理知と直感とがすでにやしなわれてそこなわれずにいるのでなければ、この選択をすることはできない。したがって、このことは循環する。そのなかからのがれでる人はしあわせである。(原51)(p.16)
人はたいてい他人のあたまのなかでできた理由によるよりも、自分自身で見いだした理由によってよりいっそうよく納得するものである。(原201)(p.17)
自然な談話が、ある情念や感銘を描く場合、人は自分が聞いていることの真実、すなわち前から自分のうちにあったのだが、そうとは知らずにいた真実を発見し、そこからそれを感じさせてくれた人を愛好するようになる。なぜなら、その人はわれわれにその人のよいものを示したのでなく、われわれのよいものを示してくれたのだから。(原420)(p.18)
ある著者たちは自分の著作のことを「わたしの本、わたいの注解、わたしの物語、等々」と言う。かれらは自分の家に住んで、しじゅう「自宅では」を口にする町人根性を脱していない。むしろ「われわれの本、われわれの注解、われわれの物語、等々」と言うべきである。その理由は、ふつうそれらのうちには、かれら自身のものよりも他人のものがいっそう多くはいっているからだ。(ボッシュ版増補2)(p.27)
虚栄は人間の心に深く錨をおろしているので、兵士も、従卒も、コックも、人足も、それぞれじまんして、自分の称賛者をえようとする。哲学者ですら、おなじことを望む。栄誉に反対する論者も、よく論じたという栄誉をえたいと願う。またそれを読む人も、それを読んだという栄誉をえようと思う。そして、これを書いているわたしも、おそらくおなじ欲望を持っているだろう。またおそらくこれを読む人も・・(原49)(p.72)
好奇心は虚栄にほかならない。多くの場合、人が知ろうとするのは、それを話すためにほかならない。そうでなければ、人は航海などしないであろう、そのことをべつに話すのでもなく、また見たことをひとり楽しむだけで、人に伝えるという希望もなければ。(原75)(p.73)
みじめなわれわれをなぐさめてくれる唯一のものは、気ばらしである。とはいえ、これこそわれわれのみじめさの最大のものだ。なぜなら、これはわれわれが自分をかえりみるのをことさらにさまたげ、われわれを知らずしらず滅びにいたらせるものだからである。(原79)(p.77)
わたしの生涯のみじかい期間が、その前と後との永遠のうちに没し、わたしが占めておりげんに見ているこの小さい空間が、自分の知らないまた自分を知らない無限の空間のうちに沈んでいるのを考えるとき、わたしは自分がここにいてあそこにいないことに、恐れとおどろきとを感じる。なぜなら、なぜあそこにいないでここにいるのか、あのときにいないで今いるのか、その理由がないからである。だれがわたしをここにおいたのか?だれの命令と処置とによって、この所とこの時とがわたしにあてがわれたのか?(原67)(p.94)
われわれは似寄った連中との交際に安んじてよろこんでいる。われわれと同様にみじめで、同様に無力なかれらは、けっして助けにはなるまい。人はひとりで死ぬであろう。
だから、人はひとりであるかのように行動しなければならない。そうすれば、宏壮な家をたてるようなことをすべきであろうか?ためらわずに真理を求めるべきである。それを拒む人があったら、その人は真理の追究よりも、人間の栄誉をおもんじていることを示している。(原63)(p.96)
理性の最後の一歩は、理性を超えるものが無数にあるということを認めることだ。それを認めるところまでいたりえないとしたら、理性は弱いものにすぎない。(原247)(p.118)
正しいものが服従をうけるのは当然であり、もっとも強いものが服従をうけるのは必然である。
力のない正義は無効であり、正義のない力は圧政である。
力のない正義は反抗をまねく。なぜなら、世には悪人が絶えないからである。正義のない力は攻撃される。だから、正義と力とをむすびつけなければならない。またそのためには、正しいものを強くするか、強いものを正しくするか、しなければならない。
正義は論議されがちであり、力ははなはだ容認されやすく、論議されない。そこで、人は正義に力を与えることができなかった。それというのは、力は正義に反抗して、正義は不正であり、自分こそ正義であると言ったからである。
このようにして、人は正しいものを強くすることができなかったので、強いものを正しいとしたのである。(原169)(p.128)
一つの徳、たとえば勇気を極度に持っていても、異常な勇気と異常な寛容とを持っていたエパミノンダスのように、同時に反対の特を極度に持っていなければ、わたしはいっこう感心しない。そうでなければ、向上でなく、堕落であるからだ。人は一つの極端に走ることによって、その偉大さを示すものではない。同時に二つの極端に達し、両者の全中間を満たすことによって、それを示すものだ。(原425)(p.143)
自分の悲惨を知らずに神を知ることは、高慢を生みだす。
神を知らずに自分の悲惨を知ることは、絶望を生みだす。
イエス・キリストを知ることは中間をとらせる。なぜなら、かれにおいてわれわれは神とわれわれの悲惨とを見いだすからである。(原416)(p.202)
今さら言ってもむだなことだが、キリスト教のうちに何かおどろくべきものがあるということは認めなければならない。「それはきみがそのなかで生まれたからだ」と言う人がいるかも知れない。どういたしまして。わたしはそういう理由があればこそ、その先入見にさそわれはしないかと、大いに警戒しているのだ。しかし、自分がそのなかで生まれたにせよ、それがおどろくべきものであることは認めずにはいられない。(原41)(p.239)