「三十歳までなんて生きるな」と思っていた(保坂和志/草思社)
この作者がテーマとして選んで、書き綴っている内容は、自分の関心とドンピシャだった。物事の考え方の点で、とても共感出来る部分が多かった。
語り口は、書きながらあっちにこっちにと、移動することが多くて、全体としてあまり論理的ではないのだけれど、そもそものテーマが、論理的に書くことが難しい内容なのだ。だから、このふわふわと逍遥してしまう感じもわかるし、そうならざるを得ないテーマをあえて選んで書いていることに感心する。
【名言】
「早い話しが抽象画だ」という説明はあまりに乱暴と思われるかもしれないが、世間一般では「早い話が抽象画だ」でじゅうぶんというか、それ以上の説明は必要とされないし、実際に絵を前にしても「早い話しが抽象画だ」という感想しか持たない人がほとんどなのだ。人物を描いてあっても、顔の中に目や鼻や口がちゃんと描いてなければ、世間の人たちは「わけがわからない絵」と一蹴してしまう。(p.15)
テレビや雑誌でしょっちゅう出てくる「あなたにとって××とは何ですか?」という一見謙虚な質問も同じだ。「保坂さんにとって小説とは何ですか?」何が知りたくてそんなことを訊くのか。そんな大雑把な質問で何か実のある答えが得られると本気で思っているのか。その答えを聞いて質問者は自分自身の人生と照合させて何かを真面目に考えようとしているのか。そういうつもりなどまったくなく、ただその人たちは自分に探究心があるふりを装うために、型にはまったそんなことを口にしているだけだ(型にはまったことさえ言っていれば褒められる学校や社会というのがその背景にあるわけだが)。(p.20)
何かについて自分の力でしつこく考えようとしない場合、価値観でも方法でも理論でもすべてが「固定したもの」に見えるのだ。努力するとはつまり、「正しい」とされることをただこつこつやることではなくて、「正しい」とされていることの根拠を考えることであって、それを考えずに定説を鵜呑みにして形だけの努力をした人は、自分が教える側に立ったときに、相手の疑問や反論を認めない強圧的で教条主義的な人になる。(p.30)
数学は考える対象が限定されているために、「十代にひらめいたことをその後、十年二十年かかって証明する」などとわかりやすく言いやすいけれど、ふつうの人間でも世界に対する根源的な手触りは十代のうちに(場合によっては幼児期に)経験したことが元になる。しかし十代に経験したそれを言える言葉は誰にもなく、その言葉は三十歳になっても四十歳になっても七十歳になっても探しつづけなければならない。「それができるのは哲学者とか文学者のような特別な職業の人だけだ」なんてことを言って、考えることから逃げる人のことは私は知らない。世界と自分のことを考えずに仕事だけして何になるのか。そして最期になって、自分の死を前にしたときに、わかりやすく噛みくだかれた仏教の講話とかそれ以下の出来合いの言葉にすがっていたら、自分の人生にならないじゃないかと言いたい。(p.32)
小説家が社会的なことについて批判したり、批判しないまでもあれこれ考えたりしても所詮本業と関わりのない安全な地点での発言でしかない。ここでう「安全」というのは、社会的な評価が傷つかないという意味での安全も含まれているが、それ以上に、「考えることが自分のやっていることを脅かさない」という意味の方がずっと強い。考えることとやっていることがリンクしなければ、「言ってることとやってることが違うじゃないか」ということになる。他人からそう言われるのではなく、自分の心の中でそれを感じる。そういうリンクする地点で考えたり書いたりしなければ意味がない。(p.72)
すべての人間が奇跡的な偶然によって、出産時の衝撃にはじまる数々の衝撃を乗り越えて、精神の均衡をかろうじて保っていまに至っている。だから見方を変えてフロイト的な言い方をすれば、すべての人間には乳幼児期のトラウマもあれば脅迫観念もあれば、神経症的な要素もある。(p.100)
何よりもまず読むこと、そして次ぎに簡単に答えを出そうとしないでそれをプールしておくこと。「文学を読むことの効用は何か?」という類いの短絡的というか気が短いというか、”溜め”のない質問にはそもそも文学は答えるのが苦手だが、文学に接していない人とつき合ってみると何度目かに(場合によっては一回目に)薄っぺらさに気づく。もちろんその薄っぺらさに本人は気づいていない。文学の価値がわかるには時間がかかる。しかし今の社会は時間がかかることをただの「非効率」と切り捨てる。必然的に文学の価値を知る人が育たない。(p.101)
人が生まれてくるための受精の瞬間は偶然の極地だし、親はこの私でなくても自分たちの子どもでありさえすれば誰でもよかった。しかし、そのように偶然からはじまったものが時間の厚みによって、取り替えが不可能なものになる。現に生きている私たちが見なければいけないのは、この時間の厚みであって、はじまりの偶然ではない。(p.153)
天体の運行にしろ気象の変化にしろ、私たちは現状の説明でじゅうぶん納得していて、それ以上の「何かがある」とは思わない。私は専門家ではないから本当の本当のところはわからないが、天体は気象にはもうこれ以上何もない。「何もない」と言われてそれで気懸かりが残ったりしない。だからそこには神もいない。科学的世界観というのはそういう状態のことだ。(p.206)