「幻惑の死と使途」と同時期に起こった事件ということで、同時並行的に進む形をとっている作品。その構成は面白かったけれど、お互いの事件がまったく独立したものになってしまっていて、せっかく二つの話しをセットにしているのに、お互いがシナジーを生み出すような効果がなかったのはちょっと残念。もっと、二つの事件がもっと密接に絡みあって、補完しあうような構造になっていたら、ものすごく面白かったんじゃないかと思う。
犀川や萌絵の登場がかなり少ないという点で、シリーズ中では異色な内容。犀川にいたっては、ほんの少ししか現れない。それにもかかわらず、事件の全貌を一瞬で理解してしまうというのはやはりスゴいのだけれど、その分、あまり面白いセリフや会話が多くなくて、このシリーズ独特の魅力は薄れてしまっていた。
萌絵のこの事件への入り込み方も深いものではないし、トリックの部分もそれほど力を入れていないようで、なんとなく、本編のおまけの番外編というような雰囲気がある。
謎の解明の部分は、面白かったけれど、「なるほど!」という感動はなく、どうもすっきりしない。本人自身も無意識に忘れてしまっているような記憶喪失というのは、推理小説としては、ちょっと反則ラインに入ってしまっているんじゃないかと思う。
ラストの、救いをもたせた、余韻の残る終わり方は好き。
【名言】
睦子は、姪の結婚相手は誰でも良いと考えている。結婚相手など関係ないのだ。そんなもので人生が左右されるようでは、はなから勝負にならない。あの子は、きっと自分ができなかったことをしてくれる、と睦子は信じていた。(p.203)
病院の廊下を歩くとき、つるつるの床に、突き当たりの窓が少し歪んで映っているのを杜萌は見た。正確な平面に思えるものも、遠くからやってくる光を正確には反射できないようだ。どんなに精根を尽しても、人間の一生で築き上げられる地位や権力など、必ず歪(ひず)んでいるのだ。(p.217)
「西之園君」
彼女が振り向くと、犀川はキーボードを叩いている。彼はディスプレイを見たまま、言った。
「その仮面には・・、穴があいているだろう?」
「ええ、目のところに」萌絵は答える。「それが、どうかしましたか?」
「何故、穴なんて開いているのかな?」
「だって・・、開いていなかったら見えません」
「チャオ」
「何ですか?チャオって」
「さようなら」(p.348)
「先生、何か杜萌にお話しして下さい」萌絵は横の犀川に躰を寄せて言う。
「キミはどんな形が好き?」犀川は杜萌に向かってきいた。
「形?ですか?」杜萌はびっくりする。
「そう、三角形とか、五角形とか、立体でも良いよ」
杜萌は、笑いが込み上げてきて、ものが言えなくなる。
「ね?」
萌絵もくすくすと笑う。
「あの・・、犀川先生は、どんな形がお好きなんですか?」杜萌はようやく落ち着いて反撃してみた。
「三対四対五くらいの直方体だよ、一番好きなのは」犀川は真面目な表情で答える。「平面では、正七角形かな・・。あるいは、一対一・三くらいの楕円も捨て難いけど」
杜萌はまた笑った。
「じゃあ、色はどうですか?どんな色がお好きです?」杜萌はきいてみる。
「色は好きじゃない」犀川は口もとを斜めにして答えた。そして、隣の萌絵をちらりと見る。萌絵は小さく肩を竦めて、杜萌にウインクした。
「色彩は絶対的な概念ではないからね。物体が持つ性質でもないし、観察者の極めて主観的な評価に過ぎない。つまり、普遍的でもない。だから、その一瞬でしか評価できないわけだし、好きとか、嫌いとか、言ったとたんに、無意味になるよ」犀川は補足した。(p.445)
「犀川先生は、萌絵のどこが気に入ったのですか?」思い切って杜萌は質問した。自分らしい大胆な質問だと思った。
「その質問をする君が、興味深い」犀川は煙草に火をつける。「質問は、質問する人を表現するんだ。それに対する返答なんかとは無関係にね」
「ね、はぐらかしのエキスパートでしょう?」萌絵が囁く。(p.446)
「さて、それじゃあ・・」犀川は背筋を伸ばした。「帰りは何の話をする?朝は駄目だけど、この時間なら僕は万全だよ。2時間たっぷりと君の話につき合ってあげよう」
「子供みたいですね、先生って」
犀川はきょとんとした表情で萌絵を見た。
彼女は溜息をつく。
「お弁当を食べたら、私、眠りたいわ」(p.505)