供述によるとペレイラは…


供述によるとペレイラは…(アントニオ・タブッキ/白水社)

第二次世界大戦の前夜、ドイツやイタリアやスペインの国内でどのようにファシズムが台頭したかや、それに対してイギリスやフランスやロシアがどのように反応したか、ということは、様々な歴史書の中で詳しく述べられている。
しかし、その頃、ポルトガルが一体どのようであったかということになると、さっぱりイメージがつかない。
ポルトガルは、大航海時代を最後に、歴史の表舞台からは姿を消してしまっていて、それ以降はスペインの一部のような感じがしてしまうのだけれど、当然のようにポルトガルにも、スペインとは異なった、独自の歴史がある。
その点、この小説のような、ポルトガルの国内から見た視点というのはとても斬新で、ポルトガルにも、固有のアイデンティティがしっかりと存在していることがよくわかる。
ペレイラという、平凡な一市民から見た世界情勢は、とても狭い範囲にとどまっていて、一体何がヨーロッパに起ころうとしているのか、彼にはよくわかっていない。この小説は、自分の意志とは無関係に、否が応にも世界の一部と関わっていくことで、彼自身が変わっていくという、成長の物語だ。
この小説は、タイトルが示す通り、ペレイラによる供述を記述したもの、という形式で書かれているけれど、それが一体どのような状況での供述なのかということことは明らかにされていない。
ペレイラは、ファシズムから離れた自由陣営の中にあって、英雄的な立場で過去を回想しているのかもしれず、あるいは、まったく逆に、ファシズムによって自白を強要させられているのかもしれない。
この想像の余地を残しているのが面白いところではあるけれど、どちらにしろ、彼の供述の価値が変わるわけではない。特別に高潔でも意志堅固でもないペレイラであるからこそ、彼が最後にとった行動には感動させられる。
【名言】
いいかい、モンテイロ・ロッシ君、はっきりといわせてもらうが、きみのもってきた原稿は掲載できない、いや、ポルトガル中さがしても、これを掲載する新聞はないだろう。きみの祖国だというイタリアの新聞でも、だめだろう。きみは、軽率なのか、それとも煽動しているつもりなのか、そのどちらかとしか考えられない。そして、今日のポルトガルのジャーナリズムは、軽率人間にも、煽動者にも場を提供するわけにはいかないのだよ、これがほんとうのところだ。(p.34)
カルドーソ医師がそとに出て街に消えてしまうと、彼はとり残された気持になり、じぶんがしんそこ孤独に思えた。それから、ほんとうに孤独なときにこそ、じぶんのなかのたましいの集団に命令する主導的エゴとあい対するときが来ているのだと気づいた。そう考えてはみたのだが、すっかり安心したわけではなかった。それどころか、なにが、といわれるとよくわからないのだが、なにかが恋しくなった、それはこれまで生きてきた人生への郷愁であり、たぶん、これからの人生への深い思いなのだったと、そうペレイラは供述している。(p.143)
モンテイロ・ロッシ、なぜきみにこんなふうにしてあげるのか、ぼくにはわからない。ペレイラがいった。たぶん、あなたがまじめな方だからです。モンテイロ・ロッシがこたえた。そんな単純なことじゃない、ペレイラがいった。世の中にまじめな人間はどっさりいるが、わざわざ自分から災難を求めることはしないだろう。それじゃ、ぼくにはわかりません、モンテイロ・ロッシがいった。ぼくには皆目わからない、ペレイラがいった。問題はぼく自身、どういうことなのかわかっていないことなのだ。(p.160)