ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』一人の人間の青年期から老年期までを追い続けた物語


コレラの時代の愛(ガルシア=マルケス/新潮社)

コロンビアを舞台に、一人の人間の青年期から老年期までを追い続けた、長い長い物語。

まったく相手にされていないにも関わらず、長年にわたって一方的に一人の人を愛し続けるというのは、客観的に見るとかなり倒錯していて不気味な感じではあるけれど、それが50年以上も続くとなると、これはもう敬うべき偉大な執念と呼ぶしかない。

なにしろ、半世紀以上もの長きにわたる物語なので、その途中には、色々とサイドストーリー的な小咄が挿しはさまれていて、それが一層、主人公の一途な妄執をよく示すエピソードになっている。

といっても、あっても無くても本筋にはあまり関係のない話しばかりなので、ちょっと冗長な感じはした。退屈な部分が多いので、そういうところを読む進めている時が、ちょっとツラい。

ヒロインであるフェルミーナ・ダーサの無慈悲なまでの心変わりや冷酷さは、見ていておいおい!と思うところもあるけれど、実際そういうものだろうという気がするし、そこまで絶望的な状況にもかかわらず未練を捨てることが出来ない主人公フロレンティーノ・アリーサのほうも、やや極端であるとはいえ、これもまた実際によくある姿なのだと思う。

「百年の孤独」にも匹敵する、とても大きなスケールの物語だった。

名言の引用

彼女は刺繍から目を放さずに、<父の許しがなければ受け取れません>と答えた。フロレンティーノ・アリーサは温かみのあるその声を聞いて思わず身体を震わせたが、今にも消え入りそうなその声を生涯忘れることができなかった。しかし、彼は毅然とした態度を崩さず、すぐに<では、そうしてください>と言ったあと、その命令口調を和らげようとして哀願するように付け加えた。<これは生死にかかわる問題なのです>。フェルミーナ・ダーサは顔を上げなかったし、刺繍の手も休めなかったが、心を決めて扉を少し開いた。その隙間は全世界が入るほど広かった。(p.94)

際立って美しく、魅力的な彼女が街路の敷き石の上をヒールの音を響かせて歩いているのに、どうしてみんなは自分のように心を奪われないのだろう、スカートのフリルがため息をつくように翻るのを見て、どうして心が騒がないのだろう、揺れ動く髪の毛や軽やかな手の動き、黄金の微笑みを見て、どうしてみんなは彼女に恋しないのだろうと不思議に思った。(p.152)

自分とそれまでずっと仇敵のように思ってきたこの男は同一の運命の犠牲者であり、共通の情熱に振り回されているに過ぎない。言い換えれば、自分たちは同じくびきにつながれた二頭の家畜なのだ。フロレンティーノ・アリーサは二十七年間の長きにわたってひたすら待ち続けた。そのときはじめて自分が幸せになるためには、敬服すべきこの男に死んでもらうしかないと考えて、突き刺すような耐えがたい痛みを覚えた。(p.278)

数分間、疲労に負けて眠り込んだ。目を覚ますと、彼女はベッドのそばの小さな明かりをつけ、目は開けていたが泣いてはいなかった。彼が眠っている間に、何か決定的なことが起こったのだ。長い年月をかけて、澱のように積もり積もったさまざまな感情が嫉妬の炎でかき立てられて表に現れ、一瞬にして彼女を老い込ませた。あっという間に皺が増え、唇は色が褪せ、髪に白いものが混じりはじめた。(p.361)

人生が巡りめぐって、ようやく彼の望んでいた地点にたどり着いたのだ。あとはすべて彼の問題だった。それまで五十年以上自分だけの地獄を生きてきたが、この先もまだ数々の厳しい試練が待ち受けているはずだった。たっだし、今度こそ最後の試練になるはずだから、以前よりも強い熱意と苦悩、それに愛情でそれらに立ち向かう覚悟ができていた。(p.419)

こんなに近い距離で向き合い、ゆっくり落ち着いてお互いの顔を見つめ合うのはこの半世紀間に一度もなかった。お互い目の前にいるのは、つかの間の過去の思い出を別にすれば、何ひとつ共有するものを持たない、死を間近にひかえた老人であり、今の二人にとって若い頃の自分たちは孫といってもおかしくない年頃の人間だった。この人はようやく自分の夢がかなわぬ夢だと悟ったのねと彼女は考え、そのことで先の非礼な行動を許してもいいような気持ちになった。(p.440)