禅とは何か(鈴木大拙)


禅とは何か(鈴木大拙/角川書店)

禅宗の入門的解説書なのだけれど、文章が読みにくい。意味が難解というのではなく、改行や句読点の位置が適切ではなくて、日本語の文として、かなり読みにくかった。同じ文章の繰り返しが何度も出てくるところは、さすがにちょっとひどいと思う箇所もある。
しかし、話しの内容は、もともと、一般向けに講演された内容を筆記したものであるということもあって、かなり日常に近い言葉で簡明に説明がされていると思う。講演は、昭和2~3年のものということなので、だいぶ昔の話しだけれど、普遍的なテーマばかりが語られているので、まったく古い感じはしない。
一般的な禅の教義の解説をしているのかと思いきや、著者独自の考え方がかなり色濃く出ていて、これは随分、ありきたりな解説書とはかけ離れた本なのではないかと思う。
仏教は、知と情、という二つのものから成っていると大拙氏は語っている。禅宗というものをどこまでも知的な宗教であるとしながらも、その話しの中には、「情」という側面から考えを進めている内容が多い。
「こう言う人もあると思うが、私はこう思う」と、自分自身の解釈をはっきりと述べている。著者の考えには突飛と思えるところもあったけれど、共感出来るところのほうがより多くあった。
【名言】
なんらかの条件による心の激変はすなわち宗教的意識の発芽を意味している。すべて人間は自己分裂を感じ始めたところに宗教心の芽ばえがあるのである。(p.16)
いったい禅宗はどこまでも知的な宗教であるからして、これにはいるには何にせよ幾ばくかの知識が必要である。他力本位の宗門ではこの知識ということを全然排斥するが、しかしその知識を排斥するところまではいってゆくには、かえって無非常な知識と非常な努力とを必要とするのである。知識の無用が考えられるのはただでき上がった人、回心の人々から見ての話なのである。(p.20)
われわれが人の言うことを聞いて信ずるということは、その言うことが本当であり、論理的であるということだけで、必ずしもそれを信ずるということにはならないのである。まず言うことが本当でなくてはならぬが、その外にその言っているところの者の人格が、その真実の中に加わって来ることが必要である。(p.28)
釈迦は四十九年一字不説と言うけれども、四十九年間説法せられたという点より見ると、やはり表現に言語を籍らなければならなかったことは分明である。われわれには思索が必要である。しかもただ物を考えただけでは駄目で、これを何かの形式で表現発表しなければならぬ。人間というものは、何かで自分の考えというものを伝えるものである。(p.48)
馬鹿と大天才との区分をつけようとするならば、大馬鹿にも大天才と同じ因子があるかも知れない。ただ天才はそれを表現することを知っているが、それをもたない者が大馬鹿となる。二つの岩があって一つの岩には彫刻者は美しき像を彫り出した。他の一つの岩は何にも手が着かぬゆえ依然として元の岩にすぎない。ここを考えてみると、馬鹿にはまだ自分を表現するだけの力の持ち合わせがないというだけのことである。だから表現というものをしなければならぬ。知るというだけに止めてはならぬ。(p.50)
われわれはいろいろと重重無尽に、次から次へと無窮にわたっているところの、この網の目の関係に立っているのであるから、その関係だけがあって、それ以外には何もないと言ってもよいのである。それを一切空であると仏教は教える。(p.130)
ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記