幻惑の死と使途


幻惑の死と使途(森博嗣/講談社)

この小説の大きなテーマになっているのは、唯名論ともいうべき、「名前」「名詞」に関する考察だ。そのテーマが、単に興味深い世間話しとして提示されるにとどまらず、ミステリーの仕掛けにも根本的に関係しているという仕掛けは、とても見事な構成だった。
そして、「人間のすべての行為は、自分の肉体ではなく自分の名前に栄誉を与えるためだ」というシニカルな世界観は、犀川がそれを口にすると、しっくりとハマるような気がする。

基本的には、事件の謎解きには興味のない犀川が、ほんの時折り、事件についての短い質問やコメントを発して、それが非常に核心を突いた問いであるというところがシビれる。
最後まで予想がつかなかったトリックといい、その動機に秘められた芸術性といい、ミステリー小説としても、とても完成度の高い内容だと思った。

【名言】
「百三十万か・・」犀川は呟く。「確かに形は良いな。車内も広いし・・。これにしよう」
「えっ?」萌絵は驚く。
「あの、先生、もっとよく考えて下さい。今日はカタログをもらっていきましょう」
「カタログなんていらないよ」
「でも、たとえば、色とかを決めないと」
「色って?」
「車の色ですよ。黄色じゃ駄目でしょう?」
「僕が乗るんだから、ボディの外側の色なんて見えないじゃないか。関係ないよ。別に黄色でも良い」(p.623)

紙に文字を書く動作は、人間工学的に考えても、決して自然な運動ではない。十本ある指を有効に使うキーボードの方が、何倍も人間の手に相応しい。(p.676)

何かに気がついて、新しい世界が見えたりするたびに、違うところも見えてくる。自分自身も見えてくるんだ。面白いと思ったり、何かに感動したりするたびに、同じ分だけ、全然関係のない他のことにも気がつく。これは、どこかでバランスを取ろうとするのかもしれないね。たとえば、合理的なことを一つ知ると、感情的なことが一つ理解できる。どうも、そういうふうに人間はできているみたいだ。物理の難しい法則を理解したとき、森の中を散歩したくなる。そうすると、もう、いつもの森とは違うんだよ。それが、学問の本当の目的なんだ。人間だけに、それができる。ニューラルネットだからね。」(p.763)

それが「桜の木」だと人々が感じるのは、一年のうちの数週間で、残りのほとんどは、それはただの「木」でしかない。
同様に、人はアウトプットするときだけ、個たる「人」であり、それ以外は、「人々」でしかない。(p.1125)

「将棋の駒は大きさは違うようだけど、全部、同じ形状をしている。チェスは形が違うね。それに、将棋の駒には、名前が書いてあるよね。つまり、書いてある文字が、その駒の位だし能力なんだろう?これは極めて東洋的な、いや、漢字を使う文化圏の思想だ。漢字は、言葉を表記するという文字本来の機能を超えた能力を与えられている」(p.1363)

「彼には、有里匠幻という名前がすべてだったのです。有里匠幻がビッグになれば、それが彼の欲望を満足させました。これは異常な心理ではない。芸術家だって、政治家だって、誰だってみんな結局はそうではありませんか?自分の肉体や人格に栄誉が欲しいのではない。自分の名前に与えられる栄誉が、彼らの人生の糧なのです」(p.1489)