最終講義


最終講義(内田樹/技術評論社)

内田樹さんの話しは、テーマに即して順序立てて書かれた単行本を読んでいてさえ、この話しがいったいどこにたどり着くのかわからない面白さがある。
それが、講演のような話し言葉での語りの場合、より一層アクロバシーになって、どう展開していくのか予想がつかない。それでも、まったくテーマや本筋とは関係のない話しをしているように思えても、雑談に思われた話しも含めて、きちんとすべての流れがまとまって一つの結論へと導かれるから不思議だ。
内容としては、単行本で既出の話しが多かった気がするけれど、話し言葉で語られていることによって、また全然違った視点から、より多面的に理解することが出来た感じがする。講演でもこれだけ面白い話しが出来るというのはすごいことだと思う。
【名言】
判断力や理解力を最大化するためには方法は一つしかないんです。
それは「上機嫌でいる」ということです。にこやかに微笑んでいる状態が、目の前にある現実をオープンマインドでありのままに受け容れる開放的な状態。それが一番頭の回転がよくなるときなんです。最高度まで頭の回転を上げなければ対処できない危機的局面に遭遇した経験のある人なら、どうすれば自分の知性の機能が向上するか、そのやり方を経験的に知っているはずなんです。悲しんだり、怒ったり、恨んだり、焦ったり、というような精神状態では知的なパフォーマンスは向上しない。いつもと同じくらいまでは頭が働くかもしれないけれど、感情的になっている限り、とくにネガティヴな感情にとらえられている限り、自分の限界を超えて頭が回転するということは起こりません。(p.53)
経験的にわかるんです。「問題児枠」とか「バカ枠」で一定比率、「変なことをやる人間」を採用しておいた方が、システムとしては安全なんですよ。組織成員が過度に標準化・規格化しないように、ときどき「異物」を混入させておくというのは、リスクヘッジの基本なんです。みんなと違う視点から、みんなと違う射程でものをとらえ、みんなと違う基準で良否を判断するような人間が、どんな組織にも一定数いないとまずいんです。そういうのは平時は使い物にならないかもしれないけれど、危機の時には役に立つことがあるんです。必ず役に立つわけじゃないですよ。平時にも役に立たなかったし、有事の時にもさらに役に立たなかった・・ということも残念ながらあるかも知れない。それでも、打つ手がなくて手詰まりになったときに、思いがけない人間が、思いがけないソリューションを提案して、それでシステムが救われたというのは、「よくあること」なんです。(p.76)
さて、レヴィナスは僕に会ったときに、「もう本に書いたこと」を繰り返すのか、それとも今彼の脳内で生成しつつある知の運動を語るのか、どちらなのか。それは会いに行ってみないとわからない。それで会いに行ったんです。でも、そんなことは会って5秒でわかるんです。ものすごい勢いで話し始めたから。本を読み上げるどころか、今ここで新しい哲学書、単行本一冊分くらいを一気に語るんですから。僕はそのとき本当に感動したんです。(p.89)
一億三千万人の人間が、だいたい似たようなことを考えているというのは、システムの安定性という観点から言えば、たしかにほとんど理想的です。内乱も革命も、そんな国では絶対に起こらないから。でも、政治的な革命が絶対に起こり得ない国というのは、裏返して言えば、どんな分野でも、前例を覆し、常識を叩き壊すようなイノベーションが起こりにくい国ということでもあります。現に僕たちの国はそうなっている。みんなだいたい同じようなことを考えているから、喉笛を掻き斬り合うような対立関係は心配しなくてよい。でも、国内合意で安心しているうちに、世界標準からどんどん外れてゆく。イノベーティヴな才能が育たなくなっている。これはかなり深刻な事態です。僕が「息苦しさ」を感じると言ったのはそのことです。(p.122)
二つの異なる育児戦略が拮抗しつつ並存しているというのが、いちばんバランスがいいんです。両親が育児戦略を共有するのは子どもをむしろ生きにくくさせる。両親が口を揃えて「競争に勝て」と子どもを責め立てたら、子どもはストレスで壊れてしまう。逆に、両親共に「生きてくれさえすればいい」と言えば、やっぱり社会性が身につかない。(p.129)
医療と教育というのは、21世紀の「右肩下がりの日本」が、新たに産業を興すというかたちではなく、もともと日本人が具えているノウハウを最大限に発揮できるセクターなんです。でも、まさにこの医療と教育は、80~90年代において「医療崩壊」「教育崩壊」というかたちでメディアと政治家と産業界から集中砲火を浴びて、回復不能な傷を負った。(p.146)
村上さんがフランス語ができたら、きっと『ル・グラン・モーヌ』も訳されていたと思います。そして、もちろん、『ル・グラン・モーヌ』にも先行作品があるんです。何だか知らないですけど、これはあるに決まっている。たぶん人類が物語を書き始めてからずっと書き継がれている「アドレッセンスの喪失の物語」があるのです。それは人間にとって必要な物語なんです。人間の住む世界に「骨組みと軸と構造を与える物語」というものがあって、これはそのような、人間が人間であるためには読まなければならない物語の一つなんです。太古から語り継がれてきた物語の鉱脈というのはほんとうにあるんです。そして、卓越した作家だけがその鉱脈に触れることができる。(p.162)
旗印を掲げるということは、「選ばれないリスク」を引き受けるということなんです。「みなさん来てください」という学校は「旗を掲げていない」ということです。旗を掲げるということは、この旗に呼応する人だけ来てくださいということです。そのために立てているわけですから。(p.186)
三浦雅士さんがこんな話しをしています。中学校の国語で万葉集や古今集を習う。意味がよくわからないままに、受験勉強だから丸暗記する。そのまま何年か経って、ふと風景を見ているときに、「しずこころなく花の散るらむ」とか「人こそ見えね秋は来にけり」なんていう言葉を呟いていることがある。その瞬間に初めて言葉と身体感覚が一致する。自分の中に記憶されていた言葉と、それに対応する身体実感が対になる。ふつうは感動が先で、それを「言葉にする」という順序でものごとは起こると思われているけれど、そうでもないんです。最初に言葉がある。その言語が何を意味するのかよくわからないままに記憶させられる。そして、ある日その言語に対応する意味を身体で実感することが起きる。神経衰弱でペアのカードが見つかったみたいな感じですね。たしかにその言語を自分は知っていた。でも、ただの空疎な言葉でしかなかった。実感の裏付けがなかった。それが、ある瞬間に言葉が意味を受肉することが起きる。(p.217)
僕の中で武道とユダヤを結びつけているのは、「アメリカを眼下に睥睨したい」というナショナリスティックな欲望ではないのか、と。まさかこの三十数年間、自分が全力を尽くしてやってきた心身の訓練とユダヤ研究の究極の目的が、「反米かよ・・」というので、かなりショックを受けたんですね。
でも、このいろいろなことをやってきたら、行き着く先がなんとも貧しい政治的な幻想だった・・という発見が、僕にとってはむしろ新鮮な感じがしたのです。「なるほど、人間というのは、ほんとうに歴史的・政治史的な文脈の中で生き死にするものだなあ」って。(p.275)