思いわずらうことなく愉しく生きよ(江國香織/光文社)
ものすごく雰囲気が好きな小説。
三人姉妹が、それぞれまったく違う考え方と環境を持ちながらも、昔ともに育った「家」の思い出を軸として、固い絆で結ばれているという、温かい空気がベースに流れている。
個性的に伸びやかに育ちながらも、家を巣立った後は、姉妹はそれぞれに違った悩みを抱えて、世間と向い合っている。
今はもうみんながバラバラに暮らしてはいるけれども、それでも、困ったことや辛いことがあった時には、いつでもお互いを頼りに出来るという心強い存在なのだということがよくわかる。
特に、末の妹の、育子の考え方がとても個性的で魅力的なのだけれど、この物語の良さは、その育子を単体の主人公とせずに、姉たちとの関わりの中で、性格の違いを対比させながら、より一層この妹の特徴が伝わるような描き方をしているところだと思う。
そういう三人姉妹の、ほんの数ヶ月程度の或る一時期だけを切り取って取り出した小説で、その中ですべての話しがクライマックスを迎えるわけではなく、これから先も同じように、この姉妹は生きていくんだろうという余韻を残していく。
この、犬山家の行く末をもっともっと眺めていたい、と思わせるような、心地よい空気にあふれた作品だった。続編をぜひとも読んでみたい。
【名言】
犬山家には家訓があった。人はみないずれ死ぬのだから、そして、それがいつなのかはわからないのだから、思いわずらうことなく愉しく生きよ、というのがその家訓で、それぞれのやり方で宗としていた。(p.7)
ドアをあけると、しかしそこには育子が立っていた。男物みたいに見えるベージュのトレンチコートを着て、赤い手提げを持ち、ばさばさの髪をして。
「来ちゃった」
わずかに遠慮がちな笑みを浮かべ、育子は言った。
「麻子ちゃん、私を追い返す?」
と。それは、育子にしかできないやり方だった。育子にしかできない、そしてそのせいで麻子には拒めない--。(p.132)
機嫌のいい夜とはいえ、こういうときに育子は淋しいと思う。ぽっかりと一人ぼっちだと思う。いままでも一人ぼっちだったし、これからもおそらく一人ぼっちだろう、と考える。
「起きて」
寝ている男に声をかけた。
「もうじき十二時だよ。電車なくなっちゃうよ」
男が飛び起きたので、育子はますます孤独になる。
「そんなに里美ちゃんが恐いんなら、来なければいいのに」
好きな女と実質的に結婚したくせに、それ以前とおなじように部屋に遊びに来る男に、育子は意地悪を言ってみる。
「それはそれ、これはこれ、って言うんなら、里美ちゃんにもそう説明すればいいのに」
衣服を拾って身につけながら、
「そりゃあそうだけどさ」
と、光夫は言った。
「そりゃあそうだけど、そんな理屈はフツー通用しないんだよな。現実は厳しいからさ」
裸のままの育子の頭のてっぺんに、そそくさとキスをする。
「弱っちい」
育子は感想を述べた。
「男の子って、ほんとに弱っちい」(p.197)
よかった、と言って、岸正彰は微笑んだ。心から安堵したらしい微笑み方で、同時にため息のようなものもこぼしたため、車の中の空気があたたかくほどけた。
すてき、と思ったので、育子は、
「すてき」と声にだして言った。この人、いま私のことで不安になって息をつめ、安心して力を抜いた。なんてすてき。(p.222)
絶対思い知らせてやる。
治子は固く、そう決心していた。許せない。夫婦のことは夫婦にしかわからない、と行った熊木は正しいのかもしれないが、それはどうでもよかった。わかる必要もない。治子にとって必要な事実は、自分が麻子の味方だという点だけだった。(p.258)
関係を問われ、友人、とこたえたが、どういうわけかうしろ暗い気持ちになった。入口付近の壁はうす緑色に塗られていた。小さな合成革のソファは、スプリングがすっかりだめになっていて、でこぼこだった。他に人の姿はなく、建物の中は静かで、ひんやりと底冷えがした。育子には、雪枝の心細さが伝わってきた。心細いのが雪枝なのか自分なのか、ほとんどわからないほどだった。(p.285)
結局のところ、すべての物事に段階がある、という岸正彰の考え方が、育子には気に入ったのだった。理由ははっきりしていて、「わかりやすいから」だ。わかりやすさこそ、育子が日々求め、信頼し、愛してやまないものだった。(p.298)
重い足取りで階段をのぼる。のぼりきった場所に、大きな水たまりができていた。常夜灯だけがついたうす暗さのなかで、それは不気味な光をたたえていた。
夫は、ここに立って電話を聞いていたのだ。
絶望的なかなしみに胸をふさがれて、麻子はその場所に立ちつくす。踏むこともまたぐことも恐いように思えた。それは風呂の湯ではなくて、夫の心と身体からにじみでた、怒りと不満であるように思えた。(p.337)
「そろそろ帰ったほうがいいんじゃないかな」
正彰が言った。床には、岸ちゃんの運んできたココアのカップが二つ、内側にチョコレート色の跡だけを残して置かれている。午後十時十五分。育子は思うのだが、男の人というのは夜の深さを時間でしか計れない。
「わかった。帰るわ」
正彰の頬に唇をつける。つまり子供なんだわ、と、思いながら。(p.368)
大通りまででて、それぞれタクシーを拾った。滅多にないことなのだが、育子は自分の両親を気の毒に思った。今夜の彼らは無口で年をとって見えた。途方に暮れているように見えた。
しかも彼らは別々の場所に帰るのだ。一人ぼっちで。
麻ちゃんも、治子ちゃんも。
かつておなじ家に住んでいたのに。いつも一緒で、いつも愉しかったのに。(p.389)
「でもここは世間なのよ。そんな勝手はできないのよ」
かなしいのは、邦一を見捨てるみたいな気がするからだ。麻子はゆっくりまばたきをして、その考えを振り払おうとする。
「邦一さん、この世間で、もう一度私をつかまえてくれる?」
水は、からっぽの喉から胃に流れ込み、しみとおり、たちまち指先にまで運ばれる気がした。麻子は半分減ったペットボトルを邦一にさしだす。
私はここをでても、あの家には帰らない。あなたがもう一度私をつかまえてくれない限り、帰らないわ」(p.392)