二十六人の男と一人の少女(ゴーリキイ/岩波書店)
これは、ものスゴい作品だ。
異様な迫力と怨恨のエネルギーを持ったプロレタリア文学であり、尾崎豊の「はじまりさえ歌えない」を彷彿させる、ロックな小説だと思った。
尾崎豊の歌と違うところは、この物語の主人公にあたる男たちが「ひとりぼっち」ではないことだ。狭い地下室に押し込められて、劣悪な労働環境で朝から晩までひたすらパンを焼き続けている、二十六人の男たち。
これは、単なるワーキングプアをテーマにした話しであるに留まらず、そういう状況下に人が集まった時に人間はどうなるかという、群集心理を表現した話しでもある。
人数において資本家に勝る労働者が、階級闘争に勝利しにくいのは、彼らが自立した単独者として行動するよりも、集まって群れようとしてしまう習性によるものなのだということが、痛切に伝わってきた。
そして、陽の光の下で生きる少女は、そういう摂理を敏感に察知する。少女はまっとうな世間というものの代弁者であるかのように、快活で、気分屋で、無慈悲だ。だからこそ、彼女は最強の存在なのだ。単独では動かず、寄り集まって恨み言をいうだけの男たちがどれだけ束になったって、かなうはずがない。
この短編は、「チェルカッシ」というタイトルの短編集に収められているのだけれど、絶版になっていたので、古書店で見つけた。昭和12年発行、定価20銭、と書いてあり、それを1円で買った。70年前にタイムスリップしたような、おかしな気分だった。
【名言】
私たちは自分の仕事をはげしく憎んでゐた、だから私たちは自分の手でつくりだしたものを一度も口にしたことはなかつた。私たちは長い卓をはさんで九人づつ向ひあつて坐り、ながい時間ぶつつづけに、まつたく機械的に手のさきをうごかしてゐた。私たちはもう自分の仕事にすつかり慣れてしまつてゐたので、ほとんど一度も自分のやつてゐることを考へてみたこともないくらゐであつた。(p.93)
苦しい労働のためにあらゆる感情をおしひしがれ、まるで銅像かなんぞのやうに無感覚になつた、半分死んでゐるやうな人間に、どんな悪いことができるといふのだ?けれど、沈黙をおそろしいと思ひ、苦しいと思ふのは、何もかもすつかりしやべつてしまつて、もうそれ以上何もいふことがなくなつた人たちだけである。まだ自分の言葉を語りださない人人にとつては、沈黙をまもつてゐることは、かへつて氣らくで、さつぱりしたものなのだ・・しかし、ときをり私たちは歌をうたつた。(p.94)
二十六人がみんなで歌ふ。ずつと昔から歌ひなれた、よくとほる高い声が仕事場をいつぱいにみたす。このなかでは歌だつて窮屈だ。それは石の壁にぶつかつて跳ねかへり、呻きごゑをたて、泣きごゑをあげる、そしてこそばゆいやうな微かな痛みで心をちくりとさし、哀愁をかきたてる・・歌ひ手たちは深い、重重しい溜息を吐く。(p.95)
私たちの話といへば、いつもおなじもので、昨日も一昨日も話しあつたことを、そつくりそのままくりかへしてまた語りあつてゐるのだ、それはなぜかといふと、彼女も、私たちも、それから私たちのまはりのものも、何から何までが昨日一昨日とちつとも変つてはゐないからだ・・人間が生きてぴんぴんしてゐるのに、その人をとりまく周囲のものが何一つ少しの変化もみせないといふことは、實に苦しい、痛ましいことである。(p.98)
それからまたおそらくは、彼女がまだほんの子供で、しかも大へんに美しかつたからでもあらう、實際ほんたうに美しいものはすべて、私たちのやうな荒くれた男たちの心にさへも尊敬の念をおこさせるものであるからだ。それに、ここの懲役のやうな仕事が私たちをまるで間のぬけた牛みたいにしてしまつたけれど、それでも私たちはまだやはり人間であつた、だからすべての人間とおなじやうに私たちもまた、何でもいいから尊敬の的となるやうなものをもたずには生きてゆくことができなかつたのだ。さういふ意味で、彼女は私たちにとつては、何人にもまして貴重な存在であつた。(p.99)
人間の生活といふものは、ときには、仕方なしにせめて自分のわるいところでも大切にして生きてゆかなければならないほどに、惨めなものになることがある。これは別の言葉でいへば、人間といふものはときどき退屈のあまり罪を犯すものである、ともいへる。(p.113)
私たちは、私たちの女神の強さをためしてみたくてたまらなかつた。私たちはおたがひに一所懸命になつて、われらの女神はとても強いのだ、だからこんどの闘ひにだつてきつと勝利を得るだらう、といひあつた。(p.116)