村上春樹にご用心

村上春樹にご用心
村上春樹にご用心(内田樹/アルテスパブリッシング)

自分は、村上春樹氏の作品は、とても好きな作品と、あまり好きではない作品の2種類に分かれる。これまで、あまり好きではなかったのは、抽象的で、何が言いたいのかわかりにくいタイプの作品だ。
しかし、この本から、今まで好きでなかったタイプの作品は、そもそも自分の読み方の、アプローチの方向が違っていたから、その真意が理解出来ていなかったのだと気づかされた。
本の中で、「村上春樹が世界各国で受け入れられる理由」について、特に見事に表現していると思ったのは、次の部分だった。
村上文学がそのローカルな限界を突き抜けることができたのは、存在するものを共有できる人間の数には限界があるが、存在しないものを共有する人間の数に限界はないということを彼が知っていたからである。』(p.90)
なるほど!と感心した。
「ルビンの壺」という、壺にも、向かいあった2人の顔にも見える絵があるけれど、あの絵のように、一つの事象を表現するにも、表と裏との、2通りのアプローチがある。壺をそのままストレートに表現する方法もあれば、向かい合った2人の顔を描くことで、壺を浮かび上がらせることも出来る。
村上春樹は、失われたもの、もはや存在しないものについてひたすら積み上げて描くことで、そうではないものを表現するという手法を取っていたのだ。
羊男が作品の中で言う、「意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ」というセリフはそのまま、村上春樹の作品の読み方についてのガイドなのだと思った。
それを理解した上であれば、今まで意味がわからないために面白くないと思っていた部分の見え方も随分違ってくるのだろうと思う。新たに得た視点をもって、再び村上作品を読み返してみたいという気にさせる本だった。
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ルビンの壺


【名言】
仕事はきちんとまじめにやりましょう。衣食住は生活の基本です。家族はたいせつに。ことばづかいはていねいに。というのが村上文学の「教訓」である。それだけだと、あまり文学にはならない。でも、それが「超越的に邪悪なもの」に対抗して人間が提示できる最後の「人間的なもの」であるというところになると、物語はいきなり神話的なオーラを帯びるようになる。(p.67)
他の人々が単なる指示的機能しか認めないセンテンスに、私だけが「私あてのメッセージ」を聴き取るということが倍音的エクリチュールの構造なのである。(p.113)
「眼高手低」という。創造よりも批評に傾く人は、クリエーターとしてはたいした仕事はできない。これはほんとうである。(p.164)
家族というのは誰かが抜けないと、誰かが入れない「椅子取りゲーム」に似ている。つねに「誰かが足りない」という感じを共有する人々、実はそれこそが家族なのだ。(p.231)