自分の世界の見方が、いかに固定的で、常識のフレームに囚われていたかがよくわかる。『ホモ・デウス』

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「サピエンス全史」著者の新作ということで、これはもう面白いことは確定していると思い、即購入。
前作は過去に人類がだどってきた歴史がメインだったけれど、今作は、人類がこの先進む未来についてが中心のトピック。これもまた、とても興味深い内容だった。

「常識」や「固定観念」がことごとく打ち砕かれる

未来のことである以上、様々な材料を元に推論を組み立てなければいけないのだけれど、その思考実験の過程が緻密で論理的で、とても面白い。
今生きているどの人間も、ある年代にある地域に生まれたということで、その場所に元々存在している「常識」や「通念」のフレームから逃れることは出来ない。それはあまりにも自然に人の思考に生得的に浸透してしまっているために、それが普遍的な真実などではなく、単にその時代にのみ限定的な常識なのだということには、よほど注意深く考えていないと気づかない。
この本は、そういう、今まであまり疑ったことのなかった数々の「常識」や「固定観念」を打ち砕いてくれた。

たとえば、今の時代の人間は、「人間至上主義」という思想に染まりきっている。生まれた時からずっと慣れすぎているために、それは自明の真実として、疑うことが難しいまでの当たり前の事実になっている。

「自分の感情に従え、それが真実。」という考えも、つい近年になって出来たもので決して人間にとって当たり前のものではない。
そのことを知った上で考えを受け入れるのと、知らずに妄信的に受け入れるのでは、世界の見え方の広がりがまったく違ってくる。

今日の資本主義の隆盛は必然ではない

今の時代から見ると、共産主義が敗北して資本主義が勝利したというのは、当たり前の必然に思えるけれど、全然そんなことはなかったんだということも、冷静に検証をすると見えてくる。
どちらが勝ってもおかしくなかったし、資本主義、自由主義が唯一の正解というわけではなく、たまたま偶然のなりゆきによって、自分が生まれた場所、時代ではそれ以外の価値観がないと思えるぐらいに徹底的に自由主義が浸透していて、生まれた時からずっと慣れきっているために、自明のものとしか思えないようになっている。
資本主義、自由主義が「正しいから」残ったというわけではない。ちょっとした運命の狂いで、この地球上は共産主義、社会主義が優勢を占めていた可能性は十分にあった。

未来を予測することが難しいのは、未来を予測するという行為そのものによって、影響を受けて未来は変わってしまうからだ。
「資本論」は労働者階級と資本者階級の対立の未来を予想し、最終的には労働者階級が勝利すると予測をしたが、それを読んでいた資本者階級の人々は、自分たちのおこないを自ら修正した。
それが功を奏したからなのかどうかは永遠にわからないけれども、結果としては、労働者階級が勝利をするという未来は訪れなかった。

ワルシャワ条約機構は軍事的には大西洋条約機構(NATO)を数の上ではるかに凌いでいた。西側諸国は通常兵器で均衡を達成するためには、おそらく自由民主主義と自由市場をお払い箱にし、恒久的な臨戦態勢に基づいた全体主義国家にならざるをえなかっただろう。自由民主主義が救われたのは、核兵器があったからこそだ。NATOはMAD(相互確証破壊)ドクトリンを採用した。「もしそちらが攻撃してくれば、我々は必ず、誰一人生き残らないようにしてみせる」と自由主義者たちは脅した。核兵器がなかったら、ビートルズもウッドストックも、品物があふれ返るスーパーマーケットもありえなかっただろう。だが、核兵器があったとはいえ、1970年代半ばには未来は社会主義のもののように見えた。(下巻 p.86)

戦争のない世界は日本に有利

現代は、歴史上かつてなかったぐらいに、戦争や暴力による死亡が少なくなった時代で、戦争という行為自体が、ほとんどの国にとって割りに合わなくなった。

戦争がおこなわれる可能性が少なくなった世界では、日本は相対的に有利だと思う。
いざという時にアメリカに頼らなければならない日本は、いざ戦争になった場合自分で発動出来る権利などほとんどなかったけれど、戦争の可能性が極めて低ければ、安心して国防費を経済開発に振り分けることが出来る。

世界経済は物を基盤とする経済から知識を基盤とする経済へと変容した。以前は、富の源泉は、金鉱や麦畑や油田といった有形資産だった。それが今日では、富の主な源泉は知識だ。そして、油田は戦争で奪取できるのに対して、知識はそうはいかない。したがって、知識が最も重要な経済的資源になると、戦争で得るものが減り、戦争は、中東や中央アフリカといった、物を基盤とする経済に相変わらず依存する旧態依然として地域に、しだいに限られるようになった。(上巻 p.26)

アントン・チェーホフは、劇の第一幕に登場した銃は第三幕で必ず発射されるという有名な言葉を残している。昔から、王や皇帝は新しい武器を手に入れると、使いたいという誘惑に遅かれ早かれ駆られたものだ。ところが1945年以降、人類はこの誘惑に抗うことを学んだ。冷戦の第一幕に登場した「銃」は、とうとう発射されなかった。(上巻 p.28)

「経験する自己」と「物語る自己」

右脳と左脳が分離した患者の話しが面白かった。
左脳でニワトリの絵を見て、右脳でシャベルの絵を見る。右脳が見た映像は言語化出来ないので、その抽象的な内容だけが左脳に伝わって、左脳はそこから何らかの整合性を見つけるための合理的な説明、物語をなんとかして作ろうとする。
つまり、「経験する自己」と「物語る自己」という別々の人格が誰のなかにもある。

自分が、自分の意思で「自由」に決めたと思っていることの多くが、実際には様々な外部要因や、生化学的なシステムによって、「他動的に」決められている。
この本を読んだことで、自分の世界の見方が、いかに固定的で、常識のフレームに囚われていたかがよくわかった。
とても多くの示唆を与えてくれる良書だった。

人間自身の感性のおもむくままに行動することを正義とする自由主義の時代に、遺伝子工学が発達すると、それに歯止めをかけるべき倫理が存在しない。今のこの、宗教が倫理を提供しない時代に、生命をつかさどる技術が進歩しているといのは最悪のタイミングかもしれない。(下巻 p.99)

自分の気持ちがいいと思うことに従って生きるというのは自由ではない。その「快」は、自分自らが生み出したものではなくて、脳内で勝手に生成された化学物質によっているからだ。それに従うというのは、むしろ自分の意思を放棄していることで、自分の意思とは無関係の本能やランダム性にまかせてしまっていることになる。(下巻 p.106)

名言

俗説では、18世紀には、大衆が飢えていると聞いた王妃マリー・アントワネットが、パンがなければケーキを食べるように言ったとされる。そして今、貧しい人々は文字どおりこの勧めに従っている。ビバリーヒルズの富裕な住人たちがレタスサラダや、蒸した豆腐とキヌアを食べる一方で、スラムやゲットーでは貧乏人がクリーム入りのスポンジケーキやコーンスナック、ハンバーガー、ピザをお腹にたらふく詰め込んでいる。2014年には、太り過ぎの人は21億人を超え、それに引き換え、栄養不良の人は8億5000万人にすぎない。(上巻 p.14)

進化論には多くの人が激しい抵抗を示すのに、それよりずっと奇怪な理論である相対性理論や量子力学にはほとんど抵抗も関心も示さない。(上巻 p.130)

現在の科学の定説によれば、私の経験することはどれも、脳の中の電気的活動の結果であり、したがって、「リアルな」世界とは私には区別のしようがないバーチャルな世界をまるごとシミュレートすることは、理論上は実行可能だという。そう遠くない将来、私たちが実際にそのようなことをするだろうと信じている脳科学者もいる。考えてみると、それはすでに行われているかもしれない、あなたに。もしかしたら、今は2216年で、あなたは退屈したティーンエイジャーであり、原始的で胸躍る21世紀初頭の世界をシミュレートする「バーチャル世界」のゲームに夢中になっているのかもしれない。この筋書きの実現可能性が少しでもあると認めれば、数学によってなんとも恐ろしい結論へと導かれる。現実の世界は一つしかないのに対して、考えうるバーチャル世界の数は無限なので、あなたがその唯一の現実の世界に暮らしている確率はゼロに近い。(上巻 p.151)

第三の現実のレベルがある。共同主観的レベルだ。共同主観的なものは、個々の人間が信じていることや感じていることによるのではなく、大勢の人の間のコミュニケーションに依存している。歴史におけるきわめて重要な因子の多くは、共同主観的なものだ。(上巻 p.180)

北朝鮮と韓国があれほど異なるのは、平壌の人がソウルの人とは違う遺伝子を持っているからでもなければ、北のほうが寒くて山が多いからでもない。北朝鮮が、非常に異なる虚構に支配されているからだ。(上巻 p.188)

人の命が始まるのは受精の瞬間か、誕生の瞬間か、どこかその間の時点か?じつは人間の文化のなかには、命は誕生時にさえ始まらないとするものもある。カラハリ砂漠のクン族や北極地方のさまざまなイヌイットの集団によれば、人の命は赤ん坊に名前がつけられたときにようやく始まるという。赤ん坊が生まれると、家族はしばらく名前をつけない。赤ん坊に身体的な異常があったり、一家が経済的に困窮したりしているために、その赤ん坊を育てないことにしたら、殺してしまう。だが、命名式の前であれば、これは殺人とは見なされない。(上巻 p.233)

モディやエルドアン、安倍、中国の習近平国家主席が揃って自分の政治生命を経済成長に賭けているという事実は、成長が世界中でほとんど宗教のような地位を獲得したことを物語っている。実際、経済成長の信奉を宗教と呼んでも間違っていないのかもしれない。なぜなら今や経済成長は、私たちの倫理的ジレンマのすべてとは言わないまでも多くを解決すると思われているからだ。経済成長は良いこといっさいの源泉とされているので、人々は倫理的な意見の相違を忘れ、何であれ、長期的な成長を最大化するような行動方針を採用することを奨励される。(下巻 p.17)

仮に私が神を信じていたら、そうするのは私の選択だ。私の内なる自己が神を信じるように命じるのなら、私はそうする。私が信じるのは、神の存在を感じるからで、神はそこに存在すると私の心が言うからだ。だが、もし神の存在をもう感じなければ、そして、神は存在しないと突然自分の心が言い始めたら、私は信じるのをやめる。どちらにしても、権威の本当の源泉は私自身の感情だ。だから、神の存在を信じていると言っているときにさえも、じつは私は、自分自身の内なる声のほうを、はるかに強く信じているのだ。(下巻 p.50)

人間至上主義は、経験を通して無知から啓蒙へと続く、内なる変化の漸進的な過程として人生を捉える。人間至上主義の人生における最高の目的は、多種多様な知的経験や情動的経験や身体的経験を通じて知識をめいっぱい深めることだ。(下巻 p.54)

21世紀初頭の今、進歩の列車は再び駅を出ようとしている。そしてこれはおそらく、ホモ・サピエンスと呼ばれる駅を離れる最後の列車となるだろう。これに乗りそこねた人には、二度とチャンスは巡ってこない。この列車に席を確保するためには、21世紀のテクノロジー、それもとくにバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの力を理解する必要がある。これらの力は蒸気や電信の力とは比べ物にならないほど強大で、食物や織物、乗り物、武器の生産にだけ使われるわけではない。21世紀の主要な製品は、体と脳と心で、体と脳の設計の仕方を知っている人と知らない人の間の格差は、ディケンズのイギリスとマフディーのスーダンの間の隔たりよりも大幅に拡がる。それどころか、サピエンスとネアンデルタールの隔たりさえ凌ぐだろう。21世紀には、進歩の列車に乗る人は神のような創造と破壊の力を獲得する一方、後に取り残される人は絶滅の憂き目に遭いそうだ。(下巻 p.95)

生命科学は自由主義を切り崩し、自由な個人というのは生化学的アルゴリズムの集合によってでっち上げられた虚構の物語にすぎないと主張する。脳の生化学的なメカニズムは刻々と瞬間的な経験を創り出すが、それはたちまち消えてなくなる。こうして、次から次へと瞬間的な経験が現れては消えていく。こうした束の間の経験が積み重なって永続的な本質になることはない。物語る自己は、はてしない物語を紡ぐことによって、この混乱状態に秩序をもたらそうとする。その物語の中では、そうした経験は一つ残らず占めるべき場所を与えられ、その結果、どの経験も何らかの永続的な意味を持つ。だが、どれほど説得力があって魅力的だとしても、この物語は虚構だ。中世の十字軍戦士たちは、神と天国が彼らの人生に意味を与えてくれると信じていた。現代の自由主義者たちは、個人の自由な選択が人生に意味を与えてくれると信じている。だが、そのどちらも同じように、妄想にすぎない。(下巻 p.130)

「定量化された自己(クオンティファイドセルフ)」運動は、自己は数学的パターン以外の何者でもないと主張する。それらのパターンはあまりに複雑なので、人間の頭では理解のしようがない。だから、もし古い格言に従って汝自身を知りたかったら、哲学や瞑想や精神分析に時間を無駄にしないで、バイオメトリックスデータを体系的に集めてアルゴリズムに分析させ、自分が何者でどうしたらいいかを教えてもらうべきであるというわけだ。(下巻 p.164)

私たちが自分の経験をデータに変換するのに忙しいのもうなずける。これは流行の問題ではない。生き延びられるかどうかの問題なのだ。私たちは自分自身やデータ処理システムに、自分にはまだ価値があることを証明しなければならない。そして価値は、経験することにあるのではなく、その経験を自由に流れるデータに変えることにある。(下巻 p.233)

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