対論集 発火点(桐野夏生/文藝春秋)
桐野夏生氏と、12人の人々との対論集。
桐野氏の小説は、驚くような着眼点から書かれていることが多くて、それがいったいどのような思想から生まれているのかということに興味があったのだけれど、それが作者自身の言葉によって語られている、とても価値のある対論ばかりだった。
扉ページには、その対論が、どの作品の発表に近い時期におこなわれたものであるかが説明されていて、作品と関連させて、桐野氏の語ったことの示すところを考えるという読み方も出来る。
特に、やはり、同じ女流作家同士の対話というのは、小説の作り方について話しが及ぶことが多くて、皆川博子氏、林真理子氏、小池真理子氏、柳美里氏、坂東眞砂子氏、との対論は格別に面白かった。
【名言】
桐野:「丘の上の宴会」を読んだときに、これは「悪意小説」というジャンルだと思ったんですよ。
皆川(博子):あ、なるほど。そういうジャンルがあるといいわね(笑)。
桐野:悪意によって、心の中で人を殺している小説。なんて面白いのだろうと思いました。
皆川:二十年以上前に「オール読物」で書いた短編です。私の初期のものは、特に悪意に満ちているかもしれませんね。善意のかけらもない。
桐野:悪意は、文字でしか表せない、言葉でしか表現できない感情です。映画でも難しいですね。映像ですと、殺意は見えても、悪意はなかなか見えない。(p.32)
桐野:雅子は、かなり小説的な人物ですから。
皆川:でも、小説の場合は、小説的な人物だから面白いと思う。そこいらにいるような人をそのまま書いて、それだけの厚みしかなかったら、つまらない。小説的に書くことで、その厚みの下の何かが見えてくるんじゃないかしら。
桐野:私、最近、雅子みたいなカッコいい小説的な人物をやめて、非常に卑小で小説的なリアリティを持たない人物をたくさん出して、量の増大で質を還るようなことができないかと思っているんです。うまくできるかどうか分からないですけど。(p.41)
桐野:皆川さんは、書き出すまでに、時間がかかるほうですか。
皆川:冒頭のシーンが決まらないと駄目ですね。
桐野:私も一行目が決まらないと、書けないんです。
皆川:絵から入る方ですか、それとも言葉から?私は情景が一つ浮かんでそこから書き出すとスッと続けられます。
桐野:私は、感情ですね。感情は、人間の一つの理屈ですから。どんな感情を書くかによって、情景もシチュエーションも決まる。(p.46)
林(真理子):自分のことをたらたら書くことって、そんなにイヤじゃないんです。最初、「ルンルンを買っておうちに帰ろう」で出たとき、「よくこんなことまで」と言われたけれど、いや、ここまでやんなきゃ世の中に出られないだろうなと思ったところもありますね。
桐野:やっぱり思っていらっしゃったんですね。分かります。私、この世界に入って、ものを書くというのは恥をかくことだと思ったんですね。(p.58)
斎藤(環):ひと頃、トラウマものがずいぶん流行りましたけど、桐野さんは一度もそっちの方向に行かない。それは本能的にというか、勘でそっちはやばいと思ったんですか。
桐野:はい。私自身、取り返しのつかない昔のことで悩むということがあまりないし、もしかしてこれはトラウマなのかなと思うこともない。経験がないから書かないのではなく、小説としても面白くないと思うからです。何でも安易にトラウマにすると、自己正当化のように感じられます。最初から因果を決めてしまう自己完結のドラマというのは、それ以上話しが拡がらないからつまらないんです。(p.71)
柳(美里):桐野さんはエッセイ集『白蛇異端審問』のなかで、実人生には「偶然」が満ち満ちていて、その積み重ねで人は生きている。なのに、虚構である小説において「偶然」を排除するのはおかしい。だから、私は「偶然」をうまく納得してもらうために企みを巡らすのだ。そのひとつに、三人称多視点がある。複数の登場人物の小さな必然を組み合わせて、大きな偶然を逆に作るのである、と書いていらっしゃいましたね。
桐野:はい。私にとって現実というものはいつも整合性がなくて、でも整合性がない代わりに偶然もたくさんあって、本当の姿というものははっきりわからないし、虚構性が強いと思っているんです。だから小説を書くときには、むしろ私の考える「現実」というものを、小説の中で再生しようと思っています。(p.118)
柳:「言葉そのものも信頼していない」という桐野さんのスタンスは非常に面白いですね。
桐野:あまり信頼していないですね。だって人によって言葉は違うじゃないですか。あと最近思うのは、よく現実が小説を乗り越えたって言うでしょう、そんなの当たり前で、昔からそうなんですよね。たまたま私たちが悲惨な現実を知らなかっただけで、もう昔からとっくに、小説よりもひどい現実はたくさんあるわけじゃないですか。また、言葉で表せないものはないって言われるけどそれは傲慢だとも思うんです。結局、私たちの言葉も教育等で得た経緯からして、コストのかかった特権階級のものなんですよね。だからアフリカやインドといったところの、ものすごく貧しい地域の言葉にもならない苦しみというものは小説家は書けない、という思いが私の最近の結論なんです。(p.124)