「燕は戻ってこない」【桐野夏生】札束で子宮を買う資本主義と生殖医療の終着点


「燕は戻ってこない」(桐野夏生/集英社)

桐野夏生の小説はたいがいそうだけれど、今回もまた、社会的な弱者であるポジションの女性が主人公になっている。

北海道北東部の、人口5000人に満たない小さな町出身のリキ。東京に出てきて、病院事務の非正規雇用で手取り月収は14万円。ギリギリ暮らしていけないことはないけれど、なんとか日々をやり過ごしていくこと以外の余裕はほとんどない。

それは、リキ自身になにか落ち度があったからという感じではなく、生まれ育った環境やその他いろいろなめぐり合わせがたまたまあまり上手くいかなかったから、ということのように思える。

金が無いために、今の生活から抜け出せる手立てがなく、あるのは自身の健康な身体のみ。しかし、その身体も、30歳を目前にして、徐々に価値が目減りし始めている。
その焦り。鬱屈がよく伝わってくる。

その一方で登場するのが、リキとは対象的に、資産家の家に生まれて、世界的なバレエダンサーとして名を馳せた草桶基(もとい)。
今は現役を引退して、自宅でバレエ教室を開き、金も名声も持っている。

世間的に見れば何不自由のない優雅な生活だけれども、一つだけどうしても望んでも得られなかったものが、自分自身の子ども。
奥さんは40歳を超えて、卵子の老化が進んでいるために、今後の妊娠の可能性はほぼ無いと診断を受ける。

その他のものはすべて充分以上に持っているわけだから、一層その願いは強い。狂おしいまでに「家名を継ぎ、自分のDNAを受け継ぐ我が子が欲しい」という思いに取り憑かれていく。

片方は、金は無いが、まだ若くて健康な身体を持っている。
そしてもう片方は、金に糸目をつけずに、子どもを生める若い身体を求める。
代理母制度というのは、金で身体を買うという交換を可能にしてしまう商取引だ。

これが、生殖医療の進歩と、資本主義の帰結なんだろうと思う。
金で買えるものは何でも買おうという基は、とても傲慢な人間のように見えるけれども、その欲望を肯定しているのが今の社会だ。

「社会貢献」だのとキレイごとを並べていても、皆が、赤ちゃんを生むことを一つのプロジェクトのようにして、ビジネス的な利害の一致という点でのみ繋がっている関係だから、その裏側の本音はそれぞれ欲得がうずまいてドロドロしている。

リキは、金銭的にも情報的にも、人との繋がりなどの社会資本においても、あらゆる面で弱者だ。だから、自分自身で正しい選択をするために必要な情報にアクセスすることができない。そのために、常に行き当たりばったりの行動に出てしまい、結果として、いつまでも弱者のポジションから抜け出すことができずに、貧困の連鎖に囚われてしまっている。

読んでいてとても切ないけれども、これが現代の貧困のリアルな姿なんだろうと思う。

鬱々とした、いろいろと人間のイヤな部分を見せつけられる物語ではあるのだけれど、こういう小説が読みたくて桐野夏生を読んでいるわけだから、やはり面白く、一気に読んでしまう。

毎回テーマを変えて、現代社会のセンシティブな暗部をタイムリーに取り上げながら、しかも取材が緻密で、その描写が真に迫っているのだから、すごい作家だと思う。

結末についての感想(ネタバレあり)

リキは、セラピストのダイキや、春画芸術家のりりこと出会うことで、自分自身の状況を認識する手がかりをもらって、途中から少しずつ、権利を主張する意思を持ち始める。

ラストでリキがとった選択は、感情のままに突発的に反応をしてしまうリキらしい行動だった。
けれど、希望が持てる結末かといえば、あまりそういう風には思えない。

代理出産が、契約に基づくものである以上、権利として強いのは依頼者側である基のほうで、リキはそこから逃れて平穏に暮らすだけの知識も力もない以上、いずれは居場所を捕捉されてしまうだろう。

希望があるとしたら、りりこの後ろ盾を得て、専門家や金銭的なバックアップを受けるという道だ。
もし、このルートが成立した場合の、その後のリキの生活を見てみたい。

名言

しかし、こうして迷うたびに、とどのつまり、自分は金のためにすべてを諦めるだろうと思うのだった。百万以上のまとまった金が、喉から手が出るほど欲しかった。派遣の仕事を続けていたら、一生かかっても貯められない金が。(p.123)

こうして結婚というものを経験してみると、独身女に比して、人妻という身分がどれほど楽で、恩恵を被っているのかが、よくわかったような気がする。夫がどんなに冴えない男だろうと、妻という身分を得れば、世間ではでかい顔ができるのだ。一人の男の所有物となった女に対して、世間が遠慮をするからだ。もちろん、その遠慮は妻というよりは、その傍らにいる夫に対して、である。(p.210)