野生の思考(レヴィ・ストロース)

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野生の思考(クロード・レヴィ・ストロース/みすず書房)

この一冊を書くまでの間に、いったいどれだけの、アボリジニやネイティブインディアンに対してのフィールドワークが必要だったのだろう。言葉や文化の壁が立ちはだかっているにもかかわらず、よくここまで調べ上げられたものだということに驚く。
タイトルに、「原始の思考」や「未開の思考」などという言葉をつけずに、「野生の思考」としたところに、著者のセンスの良さが表われている。いい題名だと思う。
帝国主義時代に、列強諸国は、西洋文明を世界のすみずみまで普及させることが「人類の進歩を促す」ための使命と考えていたけれど、この本を読むと、その余計なお世話によってどれだけ多くの智恵が失われたことかと思う。
生活の中の多くを呪術や儀式にゆだねている民族というのは、非論理的な手続きによって物事を考えているように見えるけれども、その背後にある整合性を知れば、それは科学主義以上の論理性と厳密さを持っている思考体系に思えてくる。
科学的思考に染まっていると、すっかり野生の思考について意識することはなくなってしまうけれど、すべての人類に共通して、その原型はまだ眠っているはずだ。
それでも、「飼育された思考」が悪しきもので、「野生の思考」のほうが優れているとは思わないけれど、この無意識の下に、奥深く広がる野生の領域があるということを教えてくれた、とても価値のある本だった。
【名言】
概念の切りとり方は言語によって異なり、18世紀に「百科全書」のnom(名、名称、名詞)の項目の執筆者がいみじくも述べているように、用語の抽象度の差異は知的能力に左右されるのではなく、一民族社会の中に含まれる個別社会のそれぞれが、細部の事実に対して示す関心の差によってきまるのである。(p.2)
器用人(ブリコルール)は多種多様の仕事をやることができる。しかしながらエンジニアとはちがって、仕事の一つ一つについてその計画に即して考案され購入された材料や器具がなければ手が下せぬというようなことはない。彼の使う資材の世界は閉じている。そして「もちあわせ」、すなわちそのときそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。(p.23)
東カナダの呪術医は、医薬として用いる草木の根や葉や皮を採取するとき、必ずその根元に少量の煙草を供え、植物の魂を味方にする。それは、植物の「体」だけで魂の協力がなければ、なんら効力がないと信じているからである。(p.52)
私にとって「野生の思考」とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。効率を高めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。(p.262)
現在の地球上に共存する社会、また人類の出現以来いままで地球上につぎつぎ存在した社会は何万、何十万という数にのぼるが、それらの社会はそれぞれ、自らの目には、われわれ西欧の社会と同じく、誇りとする倫理的確信をもち、それにもとづいて、自らの社会の中に、人間の生のもちうる意味と尊厳がすべて凝縮されていると宣明しているのである。それらの社会にせよわれわれの社会にせよ、歴史的地理的にさまざまな数多の存在様式のどれかただ一つだけに人間のすべてがひそんでいるのだと信ずるには、よほどの自己中心主義と素朴単純さが必要である。(p.299)
多くの社会において、女性を与える人間の地位は社会的優位性(ときには経済的優位性)を伴い、女性をもらう方は下位、従属の立場におかれる。姻戚間のこの地位の上下が、客観的な制度になって表われ流動的階層性もしくは安定した階層性の形をとったり、また主観的な対人関係の中で特別待遇や禁忌を手段にして表現されたりするのである。(p.321)