『エンタメビジネス全史』知ってためになる裏話やトリビアが満載の本


『エンタメビジネス全史』(中山淳雄/日経BP)

とても面白かった。
人に話してウケそうな、知ってためになる裏話やトリビアが満載の本。
エンタメ業界に関わる歴史そのものが素材として面白いということもあるし、それを魅力的に伝える語り口が上手い。

名言

興行は本質的にカオスの中に生まれる。それは興行が宗教、遊興、芸能とセットで繁栄してきたことからもわかるだろう。昔の浅草は浅草寺の裏に芝居町があり、その横には吉原があり、神仏、芸能、売色が三位一体の文化センターであった。(p.35)

当時の映画は、”筋のよい人々”が集まる産業とは言いがたいベンチャー産業だった。パラマウントのA・ずーかーは毛皮商、ユニバーサルのC・レムリは服屋、コロンビアのH・コーンは大道芸人、ワーナーのJ・ワーナーは寄席芸人など、いわゆる「あぶれ者」たちが立ち上げた映画会社が今やハリウッド・メジャーとなっている。(p.65)

クラシック界きっての人気作曲家といえばモーツァルトだが、彼があれほど多作でありながら常に貧しい生活を強いられてきたのは「曲の切り売り」によるものである。彼は依頼を受けて作曲するたびに、その曲を依頼主に譲渡していた。その曲は依頼主のものになり、その後どんな使われ方をしているかなど知る由もない。
作曲の才能が底なしだったモーツァルトは、それを気に留めることなく、曲の販売代金、そしてわずかばかりの演奏会の出演料や貴族へのレッスン料、寄付で生活をしのぎ、35歳で終わる人生で600余りの曲を作り出した。年収は当時で2000万程度であり、浪費の激しい彼はほとんど財産らしい財産も残さず、亡くなると共同墓地に投げ捨てられている。
では、音楽家としてリッチになることは難しかったのか。19世紀後半に活躍したイタリア人オペラ作曲家のプッチーニは、「著作権」が確立する1886年のベルヌ条約を経て、生涯10作のみのオペラで「プッチーニ財団」を現在まで残すほどの莫大な富を得ることができた。(p.87)

週刊マンガの成立は、出版業界におけるビジネスモデルの革命でもある。当時の週刊マンガは30円という低価格で原価率90%を超えていた。マガジンもサンデーも13人の編集スタッフを配してマンガ家に毎週遅れず描き上げてもらっていたが、それは赤字覚悟の展開だった。かつ大人向け週刊誌と違って、マンガ雑誌は広告がつかない。10年の時を経て、マガジンが100万部を突破した時点でも赤字だったというほどの長期戦に耐えた2社の競争の結果できあがった「奇跡の市場」でもある。(p.129)

「子供向けの教養的物語」という現在の紙芝居の印象は、あくまで現在「残されたもの」から逆算した幻想である。当時の紙芝居は、豹の脳みそを移植された科学者が魔人になって犯罪を犯す『魔人』とか、三味線の皮にするため猫殺しを生業にしていた家の娘ミーコが、生きたままねずみを食べる猫娘となり、四つん這いでエロティックな描写を魅せる『猫娘』と、その魅力はエログロにあった。(p.141)

「彼女(増山)もまた、私と同じく少年が好きだった…自分と同性の少女にではなく、少年たちの群れに興味を持っていた」と竹宮が記しているように、増山という共感者がいなければこの問題作を竹宮が発表するところまで持っていけなかったかもしれない。(p.149)

電波管理体制のもとにあるテレビ業界の特異性は、「倒産事例がない」ことに象徴される。1953年の日本テレビ開局以来、地方局も含めて126社が設立されたテレビ局は、倒産事例が半世紀で1件もない。統合すらないのだ。これは産業史を眺めても例外的なテレビ業界の特性とも言えるだろう。

米国では1950年代に上院議会でコミックの残酷描写をめぐる論争があり、戦前には比較的自由だったキャラクター・物語に制限が設けられた。各出版社は一斉に自己規制し、子供の模範になる社会的に正しいキャラクターしか主人公にしなくなった。その結果『スーパーマン』『スパイダーマン』などヒーローものだけが量産され、ユーザーが離れていく結果となる。(p.203)

徳間書店の徳間康快は豪放磊落、絵に描いたようなオーナー気質で、編集者だった鈴木敏夫とともに宮崎駿の才能を見出し、まさにブレーキなしでガンガン進むような危ういスタジオジブリの経営を放埒のままに支援した。組織の盤石化を考えれば『風の谷のナウシカ』などのヒット作のシリーズ化、商品化・玩具化・ゲーム化などを積極的に推進していたはずである。ジブリは「お金儲けの話をしたことがない」会社であった。(p.205)

そもそもジブリですら儲からないというのはなぜなのか?結局のところ、製作委員会への出資比率に応じて収益を配分するので、ヒットしてもジブリが得られる部分は限られているし、映像以外のビジネスにタッチしていないので、その売上も見込めないからである。(p.209)

作品の認知度を考えれば、ジブリもアニプレックスと同じように「ビジネス」の会社に転化することも可能ではあった。だがそれはジブリの作家性を殺してしまうリスクも大いに孕んでいた。
「組織にとっての正解」と「クリエイターにとっての正解」が、完全に反発する瞬間がある。安易にハイブリッド型を志向しないことが、日本アニメが世界でもてはやされる「勝因」の1つではある。しかし、それは後述するピクサーとの対比でもわかるように、ビジネスとしての成長を犠牲にすることも意味している。(p.213)

中国において、国内企業しかゲームをリリースできないという規制を敷いたことは、慧眼であった。自国のゲーム開発会社が脆弱な状態で、欧米や日本の大手ゲーム会社の作品が国内にどんどん流入してくることを防ぎ、テンセントやネットイースのような中国ゲーム会社を成長させる時間的なバッファーを作ることに成功した。(p.220)

米国の家庭用ゲーム市場は1985年にいったん”消滅”した直後から再び急成長していくが、この時期の世界家庭用ゲーム市場における任天堂のシェアは90%を超える。1社が世界市場の9割を独占するという稀な市場環境は、間違いなく山内溥という1人の勝負師によるオールイン戦略から始まったものだろう。(p.225)

1990年代半ば、「SEGA」の米国でのブランド力は絶大だった。「10代の若者にとっては、SEGAはメガメディアのどの有名企業よりも強力なブランドだ。この世代でSEGAに太刀打ちできるブランド名は、MTVだけである」。SEGAは若者向けのクールなブランド、任天堂は子供向けで時代遅れ、というイメージが固着していった時代だった。(p.235)

商売勘に優れた正力は1934年に日本で最初のプロスポーツ団体「読売巨人軍」を結成する。ショービジネスへの嫌悪感があった時代である。朝日新聞が1915年からバックアップしていた甲子園の高校野球はアマチュアスポーツという「上品」なものであり、お金目当てのプロ野球は「下品」であるということは、当時の新聞・雑誌の多くで語られている。(p.255)