『そして、バトンは渡された』親になることは明日が二つになること


『そして、バトンは渡された』(瀬尾まいこ/文藝春秋)

主人公の優子が、ちょっといい子すぎて、なんともいえない違和感があった。
実の親でもない人と暮らす環境ばかり続いたから気を遣ってこうなったのか、本当に、本人が言うように、周りの人に恵まれてのびのびとやれたからこうなったのか。

どちらにしても、なんだかあまり健康な感じがしない。
この年頃の子でこの家庭環境なら、それなりに悩むものではないのか。

そういう一般的な規格に当てはまらないぐらいに、人が好くて素直な性格だからこそ、小説の主人公になるのかもしれないけれど、あまり現実味は感じられなかった。

他の登場人物も、全員がそれぞれ、なんだか薄気味が悪い。
森宮さんが、血の繋がっていない娘と暮らすことを異常に喜んで、人生の第一優先にしてしまうのも怖いし、張り切りすぎて空回りしている感じも痛々しい。

梨花にどんな非道い仕打ちをされても泰然としている泉ヶ原さんも、あまりに受け身でマゾヒスティックだし、身の回りのことは全部金で解決してお手伝いさんに任せっぱなしで、実際身近にいたら気持ち悪い人物だろうと思う。

一番ヤバいと思ったのは、優子の実の父親から届いていた手紙を全部隠して、親子の関係を完全に終わらせた梨花だ。
実の親と暮らすことができなくなったのは、元をたどればこの梨花の凶行が原因で、優子にとっては到底許することができない悪事であるはずなのに、まったく責めることがないという違和感。

それを知った周りの人も、誰も突っ込まないし、なにより、一番の被害者である、実父さえもが、何事も無かったかのように平然と、他の関係者と一緒に結婚式に出席している。
なんかもう、全然理解できなかった。

人の善意をまったく疑うことのない優子だからこそ、その周りにも、共鳴するように、好い人が集まったということなのかもしれないけれど、なんかこの作品の世界は、ほのぼのしているというのとも違う、おとぎ話のようなズレた世界線の話しに感じられる。

みんな、優子を可愛がっていることは間違いないけれども、それは、優子が素直な性格であることにつけこんだ、愛玩動物のような可愛がり方に近いなと思った。

誰か一人ぐらい、まともな大人が介入して、客観的に優子の状態を見られれば良かったと思うのだけれど、親戚にはそういう人はいなかったんだろうか。
唯一、担任は、その家庭環境を気にかけていそうだったけれど、ちょっと離れた距離から見守っているだけで消極的で、助けにならなかったし。

それでも、最終的には、バトンは渡されて、優子は大人たちの勝手な思惑によるしがらみから開放された、自分自身の人生を歩むことになったのだから、ハッピーエンドだと思う。
ほんと、バトンが渡されてよかった。

「親になる、というのは、明日が二つになること」という言葉は良かった。
本当に、その通りだと思う。

だから、娘が結婚をして、自分から離れていくという時の父親の心情には共感した。

優子はこの後も、何があっても、平凡ながらも幸せな人生を歩むのだろうなということが想像されて、その点は、いい読後感だった。

名言

優子はありきたりで平凡な名前でありながら、いい名前であるのは事実だ。十七年生きてきて、つくづくそう思う。響きがいいし、耳になじみやすいというのもあるけど、「優子」の最大の長所は、どんな苗字ともしっくりくるところだ。(1章 1 p.5)

どんな乗り物を使ったって行けないようなところ。そんな場所ってあるのかな。優奈ちゃんが春休みに飛行機で何時間もかけてハワイに行ったって言ってたけど、そこよりも遠いのだろうか。たける君が三つも電車に乗っておじいちゃんに会いに行ったって言ってたけど、何個乗り物に乗ったって行けない場所なのだろうか。でも、どんな不便な遠い場所にいたって、お母さんは入学式には来てくれるはずだ。ランドセルを背負った私の姿を見たいに決まっている。それなのに、式に来ないなんて絶対におかしい。いったい、お母さんはどこへ消えてしまったのだろう。お父さんはどうして本当のことを話してくれないのだろう。(1章 3 p.31)

「本当の親子より、施設の人に面倒見てもらうほうが気が楽なんだよね」
と言った。
「そんなの、本当?」
大家さんはうそを言っているようにも無理をしているようにも見えない。それでも、老人ホームに入るほうがいいだなんて、なんだかおかしい気がする。
「本当だよ。老人ホームにはお年寄りのお世話をするプロがいっぱいいるんだから。それに、親子だといらいらすることも、他人となら上手にやっていけたりするんだよね」
「そうなのかな」
親子より他人のほうがいいことがあるなんて。私には、ピンとこなかった。(1章 14 p.133)

同年代が集まる中では、時々、誰も悪くなくても、たいした理由もなくいざこざが起こってしまう。
(中略)きっと、餃子を食べなくたって、こうやって解決していた。だいたいのことは、どう動こうと関係なく、ただぼんやりと収束していくのだ。(1章 16 p.149)

「おかしいな、いつも、誰とでもうまくやってきたのに」
梨花さんに泉ヶ原さんに森宮さん。私はどの親とだって、それなりに関係を築いてきた。こういうの、世渡り上手って言うんじゃないだろうか。
「まあ、よくわかんないけど、そのころころ変わるどの親にも大事にされてたんだろう?」
「まあ、それはそうだけど」
「だから、世渡りがへたでもやってこれたんだよ。たくさん親がいるのも、いいじゃんね」
「そうかな?」
そんなことをうらやましがられたことは、今まで一度もない。血がつながった両親がいる。それが一番じゃないのだろうか。(1章 16 p.153)

「優子ちゃん、どうして欲しいものを口にしただけで、そんなに必死で繕おうとするの?」
森宮さんは静かに言った。
「だって…。今だって森宮さんに十分なことしてもらってるのに…」
「十分なことって何?」
「家もあるし、ごはんも食べてるし、私何も苦労してないっていうか…」
「当然だろ?子どもが苦労せずに暮らせるようにするのって親の義務じゃん。そういうこと言われるなんて不本意だけど」
森宮さんの言葉にうつむくしかなかった。遠慮をしているわけでも、本当の親子じゃないと牽制しているわけでもない。けれど、知り合って三年の人に、何不自由ない暮らしを与えてもらっていることを、何も思わず受け入れられるほど私は幼くはない。
「ごめん、ああ、俺、嫌な言い方したよな…。泣かないで優子ちゃん」
森宮さんに言われて、自分が泣いていることに気づいた。
悲しいわけではない。ただ、私たちは本質に触れずにうまく暮らしているだけなのかもしれないということが、なにかの瞬間に明るみに出たとき、私はどうしようもない気持ちになる。(1章 19 p.193)

「なんていうか、父親なら娘が合唱祭で歌う曲くらい歌えて当然だろう?」
森宮さんはえへへと笑った。
「まさか。そんな父親いないと思うけど」(1章 19 p.219)

「優子ちゃんのことは大事に思う。幸せになってほしいと願ってる。一緒にいた時間は短くたって、優子ちゃんは実の子どものようにかけがえない存在だ。だからこそ、僕には自信がない。梨花よりもいい親だと言いきる自信がないんだ
泉ヶ原さんは静かに丁寧に言葉を並べた。自信。親になるのに、そんなもの必要なんだろうか。自信に満ち溢れた親なんか私は見たことがない。
母親は亡くなって、父親は海外に行き、梨花さんはここから出て行った。泉ヶ原さんはちゃんと目の前にいる。それなのに、父親じゃなくなってしまうのだろうか。小学四年生の時には選択権は私にあったのに、十五歳の私は決める立場にはないようだ。(1章 21 p.238)

「梨花が言ってた。優子ちゃんの母親になってから明日が二つになったって」
「明日が二つ?」
「そう。自分の明日と、自分よりたくさんの可能性と未来を含んだ明日が、やってくるんだって。親になるって、未来が二倍以上になることだよって。明日が二つにできるなんて、すごいと思わない?未来が倍になるなら絶対にしたいだろう。それってどこでもドア以来の発明だよな。しかも、ドラえもんは漫画で優子ちゃんは現実にいる」
(中略)
「梨花の言うとおりだった。優子ちゃんと暮らし始めて、明日はちゃんと二つになったよ。自分のと、自分のよりずっと大事な明日が、毎日やってくる。すごいよな」
「すごいかな」
「うん。すごい。どんな厄介なことが付いて回ったとしても、自分以外の未来に手が触れられる未来を手放すなんて、俺は考えられない」(1章 25 p.279)

「梨花さんが過去の人なら、そろそろ森宮さんも好きな人ができるといいのにね」
「まあな。けど、いいや。昔は俺も、恋愛をしたり結婚をしたりしてないのはむなしいことかもしれないと考えてたけど、そうじゃないんだよな」
「そうなの?」
「恋愛より大事なものはけっこうあるし、何か一つ手にしていればむなしさなんて襲ってこない。優子ちゃんも大人になったらわかるよ」
森宮さんはしみじみと言った。(2章 4 p.321)

「自分のために生きるって難しいよな。何をしたら自分が満たされるかさえわからないんだから。金や勉強や仕事や恋や、どれも正解のようで、どれもどこか違う。でもさ、優子ちゃんが笑顔を見せてくれるだけで、こうやって育っていく姿を見るだけで、十分だって思える。これが俺の手にしたかったものなんだって。」
(中略)私もだ。森宮さんがやってきてくれて、ラッキーだった。どの親もいい人だったし、私を大事にしてくれた。けれど、また家族が変わるかもしれないという不安がぬぐえたことは一度もなかった。心が落ち着かなくなるのを避けるため、家族というものに線を引いていた。冷めた静かな気持ちでいないと、寂しさや悲しさややるせなさでおかしくなると思っていた。だけど、森宮さんと過ごしているうちに、そんなことなど忘れていた。ここでの生活が続いていくんだと、いつしか当たり前に思っていた。血のちながりも、共にいた時間の長さも関係ない。家族がどれだけ必要なものなのかを、家族がどれだけ私を支えてくれるものなのかを、私はこの家で知った。
「ありがとう。私もだよ」と言おうかと思ったけれど、そんなことを口にしたら絶対に泣いてしまう。(2章 9 p.361)

「なぜか森宮さんの作ったごはん、いつもたくさん食べちゃうんだよね」
「優子ちゃんはいつだって食欲旺盛だもんな」
「ありがとう。森宮さん」
「最後にお父さんと呼ぶのかと思った」
「そんなの、似合わないのに?」
優子ちゃんは声を立てて笑うと、「お父さんやお母さんにパパにママ、どんな呼び名も森宮さんを越えられないよ」
と俺の腕に置いた。
どうしてだろう。こんなにも大事なものを手放す時が来たのに、今胸にあるのは曇りのない透き通った幸福感だけだ。(2章 9 p.371)