プリズンホテル



プリズンホテル 1~4巻(浅田次郎/集英社)

浅田次郎氏の小説は、作品によっては「ここで泣かせよう」という意図がミエミエすぎることがあって、それでちょっと醒めてしまうことがあるのだけれど、この「プリズンホテル」はそういう感じはなく、とてもストレートに響いてくる話しだった。
活字だけでここまで笑わせて、感動させる小説というのも珍しい。
夏秋冬春の4部作になっていて、各巻ごとに、季節感を出しつつ、それぞれきちんと独立した一つの物語として完結しており、この構成は見事だと思う。
かなり個性的なキャラクターばかり登場して、途中かなりドタバタなことになるのだけれど、その個性同士の組み合わせの妙によって、思いもしない化学変化が起こるというところは、人の出会いと縁の不思議さを感じさせて、しみじみとする。
その中でもとりわけ変わっているのが、物語の中心的な位置づけの小説作家で、かなり倒錯して性格破綻している。主人公としては、かなり異色なキャラクターだと思うのだけれど、この人についてだけは、4巻を通じて一つの大きな物語になっているので、長い目で見守る必要がある。とにかく極端なキャラなだけに、長い物語の末には思い入れも深くなり、感慨もひとしおだ。ここまで濃い素材の登場人物ばかりを集めて、最後にはキレイにまとめてしまうというのはスゴい。
【名言】
「そうですかねえ、私らずっと、仕事の終わった順に休む、ってえ方法でやってきてますから」
「ということは、仕事の終わらん者はああしていつまでも起きていなきゃならんことになるな」
「へい、その通りで。なんたって極道は自己管理が大切ですから。てめえの道はてめえで切り拓くことだって、カーネギーも言っておりやす。おしきせの決まりの中で休んだり働いたりしてゼニを貰うんじゃ、ロクな人間になりやせん」(1巻p.167)
ぼくの髪の毛を掴んで引きずり上げると、仲オジは雷鳴のような声でこう言った
「なにをグダグダ言ってやがる。毎日これだけ修行をしたから、今のおめえがあるんじゃねえか。親の言いつけにまちがいはねえんだ!」(1巻p.297)
いいや、おめえは人を幸せにする。わからねえのか?あたりめえのホテルマンのできることは、せいぜい一泊二日の幸せだ。だが、花沢。おめえは人の一生を幸せにする。(2巻p.244)
人生劇場って、よく言ったものよねえ。長い人生、振り返ってみりゃ役者が揃う見せ場っての、たしかにあるもの。あの晩がそうだった。あの場面を境にして、あたしの人生のシナリオは変わった。(2巻p.269)
興奮もさめやらぬ人々がロビーに群れ集っている。ただひとり打ちひしがれているのは、おそらくぼくだけだろう。すっかり氷の溶けた水割りをなめながら、ぼくは枯葉のしんしんと舞い落ちる夜の窓を、見るでもなく見つめていた。たとえ何百枚の原稿を積み重ねても、ぼくの小説が人を感動させることはない。しかし真野みすずはわずか数分の歌で、すべての人々を泣かせてしまった。そして歌をつないだ柏木ナナまでもが。(2巻p.375)
金ならある。いくらだってある。いや、そんなものしか俺は持ってないんだ。いいか、おまえは天才だ。才能は汚しちゃいけないんだ。いいな、ミカ、がんばれ。才能に涙はいらない。おまえの汗で磨くんだぞ。(2巻p.424)
もう子供を産める齢ではないと悟ったときの、広野に佇むような淋しさは、誰にもわかるまい。口にこそ出しては言わないが人の命を救ったときの歓喜が、その身も凍えるような淋しさと釣り合うものだとは、マリアはいまだに、どうしても思うことができなかった。たしかに自分は、死すべき人の命を幾千も救った。だが、自分の支払った代償はあまりに大きすぎる、と思う。(3巻p.51)
猿も象もライオンも、ぼくの贈り物には何の興味も示さなかったのだから、花の正体はきっと美しいものでも何でもなく、人間が勝手に、花は美しいものと規定しているのだと考えた。やがて、美という概念そのものが幻想であると考えるようになった。
だからぼくはいつも、美しいものに対して人間として感動しているわけではない。そうすることが商売だから、モーツァルトを聴いて感動したふりをしたり、美術品にうけ売りのウンチクをたれたり、人前でわざとらしく花や月を愛でたりするのだ。
そんなぼくにとって、清子はまったく説明に窮する代物だ。百人の人間が観察して、百人とも口を揃えて美しいと言うに決まっているこの女は、いったい何なのだ。(3巻p.140)
自然はかくもゆるぎないものであるのに、そしてぼく自身も、神の造り給うたその天然の一部であるのに、どうしてぼくだけが水面に浮かぶうたかたのように、正体もなく揺れ続けているのだろう。(3巻p.213)
ぼくの秒読みにせかされて、清子の唇はタラコのようになった。
それでも美しい。こいつは神様がこの世に造り出した、傑作中の傑作だ。泣いても笑っても、寝ても覚めても、立っても座っても、こいつはどこからどう見たって美しい。
秒読みの声は途中で挫けた。ぼくはいったいどうしたら、清子をぼくのものにすることができるのだろう。いったいどうやったらぼくの心の中にしっかりと抱き止めることができるのだろう。
愛の言葉をぼくは知らない。そんなものは誰も教えてはくれなかった。(3巻p.284)
身を慄わせて慟哭しながら、ぼくは考えた。ぼくが失ったもの、それは何だろう。人間として能うかぎりの栄光と、奇跡の再生のかわりにぼくが失ったものは、いったい何なのだろう。(4巻p.378)