それでも人生にイエスと言う


それでも人生にイエスと言う(V.E.フランクル/春秋社)

著者は、アウシュヴィッツ収容所での体験を語った「夜と霧」と共に説明されることが多いけれど、こちらの「それでも人生にイエスという」では、収容所の話しに限定せず、もっとより広い範囲で人生の意味ということについて語っている。
ここで言われていることで最も衝撃的だったのは、人生の意味というのは、どう行動するかという能動的な行為によってのみではなく、自分に振りかかってきた運命に対してどういう反応を示すかという受動的な行為によっても、作り出すことが出来るという主張だった。
だから、たとえ収容所で行動の自由を完全に奪われている場合でも、病気で五体が動かせない状態であったとしても、それでもなお、死ぬ瞬間まで、どんな人間でも、生きる意味というのは創造出来る。
この本に書かれていることというのは、今よりもさらに、これから年と重ねるほどに、実感としてより深く理解が出来ていくものなのだろうという気がする。
こういう思想は、無一文になったとしても死ぬまで持ち続けることが出来る、本当の財産であると思う。
【名言】
決断にあたって決定的な役割を演じたものがあります。それは、他者の実存、他者の存在、つまり他者が示す模範です。それは、なにを語りなにを書きしるすよりも効果がありました。というのも、存在はいつも、言葉より決定的だからです。(p.14)
ある古い神話は、世界の成否は、その時代に本当に正しい人間が三十六人いるかどうかにかかっているといいきっています。たった三十六人です。消えてしまいそうなぐらい少ない人数です。それでも、全世界が道徳的になりたつことが保証されるのです。(「タルムード」より)(p.15)
もう、「私は人生にまだなにを期待できるか」を問うことはありません。いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。
私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。(p.27)
各人の具体的な活動範囲内では、ひとりひとりの人間がかけがえなく代理不可能なのです。だれもがそうです。各人の人生が与えた仕事は、その人だけが果たすべきものであり、その人だけに求められているのです。そして、より大きな活動範囲にほんとうにふさわしい働きができなかった人の人生は、もっと狭い範囲でもそれをほんとうに満たした人の人生にくらべると、まっとうされずに終わるのです。(p.32)
私たちは、どんな場合でも、自分の身に起こる運命を自分なりに形成することができます。「なにかを行うこと、なにかに耐えることのどちらかで高められないような事態はない」とゲーテはいっています。それが可能なら運命を変える、それが不可避なら進んで運命を引き受ける、そのどちらかなのです。どちらの場合でも、私たちは運命によって、不幸によって精神的に成長できます。(p.39)
家にいて、ほとんど歩けず、窓ぎわの肘掛いすに座って、うつらうつらしているおばあさんは、たいへん非生産的な生活を送っています。それでもやっぱり、子どもや孫の愛情に囲まれ包まれています。このような愛情に包まれてこそ、うちのおばあちゃんなのです。うちのおばあちゃんである彼女は、このような愛情に包まれて、代理不可能でかけがえのない存在なのです。(p.101)