グレート・ギャツビー


グレート・ギャツビー(フランシス・スコットフィッツジェラルド/村上春樹訳/中央公論新社)

これは、かなり切ない。
ギャツビーという主人公の持つ、少年のような脆さ、夢見がちな性格、ストイックなまでの自制ぶり、そして悲劇的な運命。
これらすべてが、たまらなく魅力的な雰囲気を作り出している。
翻訳のバージョンによっては、タイトルを「華麗なるギャツビー」と訳しているけれども、そのネーミングは素晴らしいと思う。ギャツビーを言い表すには、「華麗」という言葉が、とてもしっくりとくる。
この、作品の舞台となっている世界がとても好きだ。ウェスト・エッグという架空の高級住宅街にある、プール付きの庭で、夜毎に繰り広げられる豪華なパーティー。1920年代の、古き良き時代のニューヨークやシカゴ。
他の訳と読み比べていないので、それらと比べて村上春樹訳がどうなのかということはわからないけれど、やたらと長い「訳者あとがき」を読めば、その思い入れの深さはよくわかり、これほどまでに愛情と時間をかけて訳しているのであれば、元の作品世界を丁寧に表現しているに違いないと思う。
たしかにこの、「失われた時間」を痛切に悼むような喪失感や寂しさは、村上春樹の小説のベースとして、確実に引き継がれている感じがする。
【名言】
まったくのところそれは、人に永劫の安堵を与えかねないほどの、類い稀な微笑みだった。そんな微笑みには一生のあいだに、せいぜい四度か五度くらいしかお目にかかれないはずだ。その微笑みには一瞬、外に広がる世界の全景とじかに向かい合う。あるいは向かい合ったかのように見える。それからぱっと相手一人に集中する。たとえ何があろうと、私はあなたの側につかないわけにはいかないのですよ、とでもいうみたいに。(p.79)
二人はカウチの両端に座って、互いをまっすぐ見つめ合っていた。今ちょうど、何かの質問が発せられたところのように見えた。あるいはまさに発せられようとしているように見えた。さきほどまでの気恥ずかしさの影は、もうどこにも見当たらなかった。デイジーの頬には涙のあとがあったが、僕が部屋に入っていくと、彼女ははじかれたように席を立ち、鏡の前に行ってハンカチでそれをぬぐった。しかしギャツビーの遂げた変化には、ただ目を見張るばかりだった。彼は文字どおり光り輝いていたのだ。歓喜の言葉も身振りもなかったものの、新たに生じた幸福感が彼の身中から光線となって発し、その狭い部屋にまばゆく充満していた。(p.144)
なにしろ五年近くの歳月が経過しているのだ!デイジーが彼の夢に追いつけないという事態は、その午後にだって幾度も生じたに違いない。しかしそのことでデイジーを責めるのは酷というものだ。結局のところ、彼の幻想の持つ活力があまりにも並み外れたものだったのだ。それはデイジーを既に凌駕していたし、あらゆるものを凌駕してしまっていた。彼は創造的熱情をもって、その幻想に全身全霊を投じていた。寸暇を惜しんで幻想を補強増大し、手もとに舞い込んでくる派手な羽毛を余すところなく用いて日々装飾に励んできたのである。いかに燃えさかる火も、いかなる瑞々しさも、一人の男がその冥府のごとき胸に積みあげるものにはかなわい。(p.155)
握手をし、僕はそこを去った。垣根にたどり着く前に、ひとつ心にかかることがあって、僕は背後を向いた。
「誰も彼も、かすみたいなやつらだ」と僕は芝生の庭越しに叫んだ。「みんな合わせても、君一人の値打ちもないね」
思い切ってそう言っておいてよかったと、今でも思っている。それはあとにも先にも僕が彼に与えた唯一の賛辞になった。僕としては始めから終わりまで一貫して、彼という人間を是認することはどうしてもできなかったからだ。(p.246)
翻訳というものには多かれ少なかれ「賞味期限」というものがある。賞味期限のない文学作品は数多くあるが、賞味期限のない翻訳というのはまず存在しない。翻訳というのは、詰まるところ言語技術の問題であり、技術は細部から古びていくものだからだ。(訳者あとがき)(p.296)
もし「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ」と言われたら、考えるまでもなく答えは決まっている。この『グレート・ギャツビー』と、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』と、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』である。どれも僕の人生(読書家としての人生、作家としての人生)にとっては不可欠な小説だが、どうしても一冊だけにしろと言われたら、僕はやはり迷うことなく『グレート・ギャツビー』を選ぶ。もし『グレート・ギャツビー』という作品に巡り会わなかったら、僕はたぶん今とは違う小説を書いていたのではあるまいかという気がするほどである(あるいは何も書いていなかったかもしれない。そのへんは純粋な仮説の領域の話だから、もちろん正確なところはわからないわけだが)。(訳者あとがき)(p.298)