自我の終焉(J.クリシュナムーティ/篠崎書林)
かなり、衝撃的にとんでもない本だと思う。
著者のクリシュナムーティは、宗教や書物によって出来上がった観念を取り払って、純粋に自分の感覚によって「現在」の自分自身の中にあるものを見つめることによってしか、真理を理解することは出来ないという。
そのことと、著者自身が書物によって、人に考えを伝えようとすることは矛盾しているように思えるけれども、この本の中では回答を教えているのではなく、物事の見方を教えてているのだ。
この本を認めるということは、これまでに蓄積してきた知識や経験に一切を否定するということに等しい。そのことは、過去に多くの知識や経験や実績を積んできた人であるほど、難しい選択であるはずだ。
現在刊行されているビジネス書のほとんどは、まず目的を設定して、その目的を達成する方法について説明をするということが当然の前提になっている。そういう、将来のビジョンと目標達成意識を持つことが絶対的に不可欠なこととされている。
しかし、クリシュナムーティの語っていることは、それとはまったく正反対のベクトルのことを言っているのだ。彼は、知識も努力も、不要なものとして完全に否定している。
この本が真理をついているのだとしたら、そのことに早い段階で気づいて、方向習性をする必要がある。もし、もともとのスタート地点から目指す方向が見当違いのものだったら、先に進むほどに、取り返しのつかないくらい真理からは遠く離れた場所に漂着することになってしまうだろう。
感覚的には、この、クリシュナムーティが伝えようとしていることは正しい気がしている。論理的にも、おそらくそうなのだろうと思う。
人は、本や人から聞いた言葉によって影響されやすい。影響された後は、それが果たして元々自分の中にあった考えかどうか、区別することも出来なくなってしまう。人生の答えは、他人の考えた言葉の中には用意されていないのだ。
いったん、これまでのすべての知識をまっさらに戻して、本当の本当のところから自分の頭で物事を見る、ということをやってみるべきなのだと深く思った。この本に出会ったことは、後から振り返ったとき、大きな分岐点になるかも知れない。
【名言】
真面目な人間というのは、特定のゴールにどのようにして達するかを考える人ではなく、最初に「自分自身を理解すること」に徹底して取り組む人であると私は考えます。なぜなら、もし「あなた」と「私」が自分自身を理解していなければ、実際に行動するときに、一体どうして社会や人間関係や、私たちの行為を変革しうるのでしょうか。(p.24)
外面的な技術の場合は、ある程度の模倣や真似が必要です。それに対して、内面的、心理的模倣が始まると、確実に、私たちは創造的でなくなってしまうのです。私たちの教育や社会や、いわゆる宗教的生活というものも、すべて模倣に基づいています。つまり、「私」はある特定の社会的、または宗教的な形式に、私を適合させてゆくのです。その結果、「私」は真の個人であることをやめてしまいます。(p.37)
コップというものは、空の時に初めて役に立つのです。これと同じように、信念、教義、主義、引用句などを一杯詰め込んだ精神は、実際には非創造的な精神なのです。それは与えられたものを反復する精神に過ぎません。(p.67)
努力とはあるがままのものから目をそらすことなのです。「私」があるがままのものをあるがままに受け入れてしまえば、即座に闘争は終わるはずです。(p.83)
関係というものは、あなたがその中で自分自身を発見できる鏡なのです。関係がなければ、あなたは存在しません。生きるということは関係することであり、それが生活にほかなりません。(p.144)
宗教的な人たちは、「神」とは何かという問題を想像したり、熟慮しようとします。彼らは無数の本を読み、いろいろな聖人や師や大聖などの経験について書かれた本を読んでます。そしてその経験がどのようなものか想像し、それを感じようと努力しているのです。つまり、既知のものによって未知のものに近づこうとしているのです。そのようなことができるでしょうか。(p.224)
あなたは今までに一人になろうとしたことがありますか。あなたが一人になろうと努力してみたとき、あなたはそれがいかに難しく、またそうするためには並み外れた理解力を持っていなければならないことに気づくでしょう。なぜかと言いますと、精神が私たちをなかなか一人にさせてくれないからなのです。精神はすぐにそわそわし始め、絶えず逃避することに忙しいのです。(p.240)
『多苗氏との対話』
多苗氏が「書評による対話」を最近好んでいるので、対話を実施。
「多苗尚志のヘヴンズドアァァァァッッッ」より。
(彼のコメント)
すっごくヤバイ。
この本は相当に強烈だ。
藤沢氏が弊ブログスタートに際し、彼のブームであり、彼の周りでも軒並み評価が高いというクリシュナムーティの著作を貸してくれた。
しかも、彼が読みたくてやっと届いた本でまだ開いてもいなかったのに貸してくれたのだ。
男気にきっちり応えるべく第一冊目として手にとった次第だ。
読んでみたところ…
前評判に違わずもの凄い!
これが1冊目でいいのだろうか。
以降が霞まないだろうか。
真理の探究にしても、社会の変革にしても、師だとかやり方というものは存在せず、飽くまで自分を知り、自己を変革するしかない、しかも今すぐに(明日ということではダメです)と伝えるクリシュナムーティ。
ここで「~と説くクリシュナムーティ」としないところがポイントで飽くまで彼は「伝えている」だけだ。
なぜなら説くとしたらクリシュナムーティもまた導師になってしまうからだ。
彼はキリストやブッダさえも越えて導師とはならずに飽くまで同士でいるのだ。
我々はこれから誰にも従わない。そして我々の前にはシステムやマニュアル、やり方すら存在しない。
あるのは自己改革のみなのだ。
論理的、徹底的、原理的というキーワードが浮かぶ彼の展開。
しかも、哲学や心理学の専門用語は虚飾だとしていっさい使わず、ビートルズばりに平易な言葉で語る。
時に彼が大胆に言い放つ命題や提案は、論理からは外れているものの、論理よりも自明な説得力をもっているのはなぜだろう。
直感では感じていたけれどイマイチ自信が持てずにいた思想項目に対し、それでいいのだと大いなる勇気を与えてくれる。
精読したい。
時を置いてまた読みたい。
1ページ進む毎に、ため息が出て指をおでこに宛てて頭を振ってしまう。
すっごいショックだこれは。
多苗的評価(最大星5つ)★★★★★★
(水晶堂送辞)
>1ページ進む毎に、ため息が出て指をおでこに宛てて頭を振ってしまう。
古畑任三郎か(笑)
>飽くまで彼は「伝えている」だけだ。なぜなら説くとしたらクリシュナムーティもまた導師になってしまうからだ。
まさに、ポイントはそこなのだと思う。
真理というのは人に説明が出来るものではなく、自分で気づくしかないものなのだとクリシュナムーティは知っているから、正解を教えようとするのではなく、自分で気づくために必要な心構えについてしか彼は話しをしていないのだと思う。
キリストも仏陀も親鸞も、もともとはそうだったはずで、後世に伝えようとしたり、文字にして残したりしようとしたのはいつもその周りの人間で、決して本人ではなかった。この本は、「こうするべき」という方法を安易に教えようとするノウハウ本よりも、はるかに信用出来る気がする。
>精読したい。時を置いてまた読みたい。
これも、同感。
この本に出会ったことで、その後、自分の考え方がどう変わっていったかという点も、時を置いて確認してみたいと思う。