苦役列車


苦役列車(西村賢太/新潮社)

装丁からして、昭和の、それも40~50年代ぐらいの雰囲気がただよっている。
時代設定としては、現代よりも25年ほど前という設定になっているらしいのだけれど、それよりもずっと昔の話しであったとしても違和感はない。
タイトルから想像していたほど、悲惨な話しではなかった。じとっとした、陰鬱なところはかなりあるけれど、救いようのない暗さは感じない。それは、描かれているのが、シベリア抑留のように抗えない力によって強制された苦役ではなく、結局のところ主人公の身から出た錆であるという、あまり同情の余地がない状況のためかもしれない。
文章がとてもきちっとしていて、わかりやすく、読みやすい。
感性のおもむくままに自由奔放に書いた、というような文体ではなく、辞書を丁寧にひきながら、間違いのないようにコツコツと書いていったような、ストイックな印象を受けた。
これがもし、誰かに取材をして客観的にまとめたルポルタージュだったとしたら、あまりインパクトは感じなかったと思うのだけれど、作者自身の体験を元にした私小説だというところに凄みがある。
どこまでが実体験で、どこまでがフィクションかということはわからないけれど、どちらにしても、ここまでの文章を書くというのは、自身の醜さを明らかにする行為であることにはかわりなく、たしかに、身を削って小説を書いているという覚悟が伝わってくる。
どうしようもない暗さとは思わなかったのは、主人公の若さのためもあっただろうと思う。希望を持たせるような記述は、最後までどこにもなかったけれど、それでも、若さや未熟さからの失敗というのは、どれだけ痛々しくても、どこか爽快さを感じる。
【名言】
無論、貫多は最前の二人の会話等から、日下部と美奈子は自分とはまるで違う人種であることをハッキリと覚っていた。この二人はまともな両親のいる家庭環境で普通に成長し、普通に学校生活を送って知識と教養を身につけ、そして普通の青春を今まさに過ごし、これからも普通に生きて普通の出会いを繰り返してゆくのであろう。そうした人並みの生活を送るだけの資格と器量を、本人たちの努力もあってすでにして得ている者たちなのだ。そんな人たちに、ゴキブリのような自分が所期のかような頼み事をしたところで、どうで詮ない次第になるのは、とうに分かりきった話であった。(p.93)