街場の現代思想


街場の現代思想(内田樹/文藝春秋)

とても面白かった。身の回りの人や読者からの質問に対して答える、という形式をとっている章がメインになっていて、そのいずれの回答も、おためごかしのありきたりな内容ではなく、必ずユニークな視点を加えながら、説得力もものすごくあるという、マジックを観ているような回答ばかりだった。
設問の内容も、「結婚はするべきですか」「転職するか、会社に残るか迷っています」など、とても普遍的なお題が多いのだけれども、それにもかかわらず、今までに聞いたこともないような新しい提案が出されているというのがすごいところだ。
この本の中では、とても一般的な設問が題材として多く取り上げられているけれど、この著者のユニークな論法からは、どんな質問が来たとしても、それに対応して絶妙な回答を編み出すに違いないと思わせる、とても柔軟なインテリジェンスを感じる。
よくある疑問に対して、よくある回答を示して終わらせるのではなく、世に出ている議論を止揚させて、一段高い見地から、的を射た言葉でスッとまとめてしまう。こういうことが出来るというのは、ものすごくクールな知性だと思う。
【名言】
彼女たちに欠けているのは「知識」ではない(それはたっぷりとある)。欠けているのは、「自分の持っている知識」は、「どのような知識であり、どのような知識でないか」についての認識、自分自身の「知っていること」と「知らないこと」をざっと一望俯瞰するような視点、ひとことで言えば、「自分の知識についての知識」なのである。(p.13)
「文化資本」が作る境界線と、「年収」が作る境界線とでは、「壁」の高さも厚さも桁が違う。年収は本人の努力でいくらでも変わりうるけれど、子どもの頃から浴びてきた文化資本の差は、20歳すぎてからは埋めることが絶望的に困難だからである。(p.17)
フランスは「階級」社会ではないが、「階層」社会である。そして、階層と階層の間には乗り越えることのできない「壁」がある。その「壁」は社会的地位や資産や権力や情報や学歴など、多様な要素によって構成されているが、ある階層に属する人間と別の階層に属する人間を決定的に隔てているのは「文化資本」の格差である。(p.21)
ランティエたちこそヨーロッパにおける近代文化の創造者であり、批判者であり、享受者だったのである。
それも当然である。
新しい芸術運動を興すとか、気球に乗って成層圏にゆくとか、「失われた世界」を探し出すとか、そのような冒険に嬉々としてつきあう人間は、「扶養家族がいない」「定職がない」「好奇心が強い」「教養がある」などの条件をクリアーしなければならない。
「ねえ、来週から北極に犬橇で出かけるんだけど、隊員が一人足りないんだ」
「あ、オレいく」
というようなことがすらっと言える人間はなかなかいない。
ブルジョワジーは金儲けに忙しく、労働者たちはその日暮らしと革命の準備で、そんな「お遊び」につきあっている暇はない。
結局、ヨーロッパ近代における最良の「冒険」的企図と「文化」的な創造を担ったのは、かのランティエたちだったのである。(p.64)
あまり言う人がいないから言っておくが、「向上心は必ずしも人を幸福にしない」。
幸福の秘訣は「小さくても、確実な、幸福」(@村上春樹)をもたらすものについてのリストをどれだけ長いものにできるか、にかかっている。(p.74)
「敬語」というのは、「自分に災いをもたらすかもしれないもの」、権力を持つもの(その極端な例が神鬼や皇帝だ)と関係しないではすまされない局面で、「身体をよじって」、相手からの直接攻撃をやり過ごすための生存戦略のことだ。(p.83)
「早期定年退職で割り増し退職金をもらって今すぐ辞めるのと、定年まで賃金五割カットとどっちがいい?」というような問いを突きつけられて困るというのは、「決断」でもなんでもない。それは「ではいよいよ死刑執行の時間となった。さて、君はワニに食べられて死ぬのと、アナコンダに呑まれて死ぬのと、どちらがよろしいかな。you have the choice」と宣告されているようなものであって、そんなものを私どもは「決断」とか「選択肢」とかいうふうには呼ばないのである。
知的努力というものは、ワニとアナコンダのどっちがいいかというような不毛な選択において適切な決断を下すためにではなく、「そのような選択にいかにすれば直面しないですむか」に向けて集中されなければならない。右すればワニ、左すればアナコンダというような分岐点にまでずるずる引っぱられてゆく人間というのは、それ以前における重要な決断において繰り返し間違いを犯しており、その清算を迫られている、というだけのことである。(p.118)
結婚を「快楽」の多寡で考えれば間違いなく「損」である。それは認めよう。しかし、結婚を「得か損か」のタームで考えるということは、「快楽」の貨幣でしかものごとの軽重がはかれなくなっている「近代の病弊」なのだということには、そろそろ気がついてもよいと私は思う。人間を真に「人間的」なものたらしめているのは快楽ではない。「受難」である。(p.153)
あなたが「結婚してみて、ダメだったら離婚して、もう一度やり直せばいい」という前提で結婚に立ち向かう場合と、「一度結婚した以上、この人と添い遂げるほかない」という不退転の決意をもって結婚に臨む場合とでは、日々の生活における配偶者に対するあなたの言動には間違いなく有意な差が出る。手元に「リセットボタン」を握りしめて結婚生活をしている人間は、まさに「リセット可能」であるがゆえに、その可能性を試してみたいという無意識の欲望を自制することができない。それはその人が特別に自制心に欠けているとか、愛情に乏しいとかいうことではない。ボタンがあれば押したくなり、ドアノブがあれば回したくなる。人間というのはそういうものなのである。(p.168)
私たちの人生はある意味で一種の「物語」として展開している。「私」はいわば「私という物語」の読者である。読者が本を読むように、私は「私という物語」を読んでいる。すべての物語がそうであるように、この物語においても、その個々の断片の意味は文脈依存的であって、物語に終止符が打たれるまでは、その断片が「ほんとうに意味していること」は読者には分からない。(p.235)
私が若い方々に勧奨することは、とりあえず一つだけである。それは、自分がどういうふうに老い、どういうふうに病み衰え、どんな場所で、どんな死にざまを示すことになるのか、それについて繰り返し想像することである。困難な想像ではあると思うけれど、君たちの今この場での人生を輝かすのは、尽きるところ、その想像力だけなのである。(p.243)